天皇陛下御即位おめでとうございます。国民こぞってお祝いいたしましょう。
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天皇陛下御即位三十年奉祝に関する各界の取り組み

学界・文化界・芸能界・スポーツ界一覧

(敬称略)

阿木 燿子(作詞家)

阿木 燿子(作詞家)

 平成という日々

 今年になって日々、思うことがあります。平成最後のお正月、平成最後の成人式、平成最後の節分と。そう感じると、過ぎてゆく平成という時代の一瞬一瞬がとても愛しく、大事なものに思えます。そして同時に、阪神淡路大震災、東日本大震災と大きな災害に見舞われ、決して安穏とは言えない三十年を、常に国民に寄り添って下さった両陛下に対する深い感謝の気持ちで、胸が一杯になります。

 平成の御代、私達国民はどれほど両陛下を身近に感じさせて頂いたことか。様々な災害時には、避難所を訪問して下さり、床に膝をついて被災者お一人お一人に声をかけて下さる御姿が、脳裏に焼きついています。

 そんな両陛下に幾度となく、主人共々、お目にかからせて頂いたことは、身に余る光栄で、今でも信じられない思いでおります。

 平成二十九年にスペイン国王王妃両陛下が来日の際には、宮中晩餐会に御招待頂き、同年の七月に、吹上御所で催されたお茶会にお招き頂きました。大手門から吹上御所まで、都心とは思えない木の香が漂う林の中を、車で参りました。

 通された一室で両陛下をお待ちする間、出席者一同、緊張の面持ちでおりましたが、両陛下のにこやかな御顔を拝見した瞬間、場が和み、得も言えぬ至福感に満たされました。

 両陛下はとても聞き上手でいらっしゃり、出席者一人一人に穏やかな口調で質問をして下さいます。ノーベル物理学賞をお取りになった梶田隆章さんにはニュートリノのことを、ギタリストの沖仁さんにはギターの起源をお尋ねになったりと。それにしても両陛下の見識の奥深さ、幅の広さには、ただただ感服いたしました。

 そして会の終わり。当然、私達は両陛下をお見送りしてから退室するものだと思い込んでおりましたが、皇后さまが「みな様をお送りいたします」とおっしゃって下さいました。玄関までの長い廊下の途中、トイレの前に差し掛かりましたら皇后さまが「お手洗いをお使いになる方は、どうぞ。ここでお待ちしています」と御声を掛けて下さいましたが、両陛下をお待たせして、トイレになんか行かれるはずがありません。玄関でご挨拶をして車に乗り込んだ後も、両陛下はずっと手を振って下さっていました。

 誰にでも分け隔てなく接して下さる両陛下。日本一、いえ、世界一仲睦まじい御夫婦の両陛下。その御姿に直接、触れさせて頂いたことは私の一生の宝物です。その広い御心に、今はただただ尽きせぬ感謝を申し上げさせて頂きたいと存じます。

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秋山 昭八(弁護士)

秋山 昭八(弁護士)

 命ある限り世のため人のために

 此の度は、天皇陛下御即位三十年奉祝委員に選任され、身の引き締まる思いであります。

 私は陛下と同年の昭和八年一月一日に出生し、陛下と同年であることに深い思い入れがあります。

 私は幼少の頃、紀元二千六百年奉祝記念に当り、日本の将来を案じ報国の念を深くしたことを記憶しておりますが、その後我が国は太平洋戦争に敗れ、疎開先で厳しい中学時代を過しました。

 が、一念発起し、昭和二十六年大学卒業の年に司法試験に合格し、爾来法曹として今日に至っています。

 この間、教科書検定違憲訴訟の国側代理人を務め、或いは日教組による教職員のストライキ処分事案で各県教育委員会代理人として取組んだり、内閣人事局所管の公務員労働関係研究会に関与していたことから三回に亘り、天皇陛下主催の園遊会に招へいされる栄に浴し、御元気な陛下に拝謁することができ、我が国の安泰を祈念することができましたことは、誠に記念すべきことでありました。

 小職の子供らも長男は医師、次男は法曹として国家再生のため頑張っております。

 来年は新天皇をお迎えすることになり、天皇陛下には益々御元気でお過ごし下され度く祈念申し上げると共に、小職も命ある限り世のため、人のために尽くす所存であります。

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浅井 慎平(写真家)

浅井 慎平(写真家)

 奉祝の献歌五首

歳月の深き重きを頬笑みて
 永遠に匂へる菊は黄金に

月影の澄める枯野にたゞ一人
 歩ゆみとめれば白菊の花

あしびきの山里に咲く野の菊の
 都の人の夢に見へくる


天皇のこころ悲しも青空の
 透けて幾年またの菊咲く

み雪降る残れる菊の眞直ぐに
 古き都の思ほゆるかも

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阿羅 健一(近現代史研究家)

阿羅 健一(近現代史研究家)

 ご誕生の奉祝歌

 今上陛下は昭和八年にお生まれになった。この年、私の母は宮城女子師範学校を卒業して小学校の先生になった。理科と音楽を専門にしていたので、赴任先はピアノのある岩沼市の岩沼小学校となった。そのころピアノのある学校はかぎられ、また音楽を専門にする先生もかぎられていた。

 十二月二十三日に今上陛下がお生まれになると、日本中が喜びに沸き、間もなくご誕生を祝う「皇太子さまお生まれなった」の譜面が学校に送られてきた。北原白秋作詞、中山晋平作曲の奉祝歌である。

 テープレコダーなどない時代であり、送られてきた一枚の譜面をもとにさっそく母が全校生徒に教えることになった。学級ごと、学年ごと、児童全員に教えた。一巡するとふたたび教えた。当時、義務教育は尋常小学校六年までで、その上に女子の学ぶ高等女学校があり、母はそこの先生も務めていたので、高等女学校でも教えた。となりの学校に音楽を専門とする先生がいないため、となりの学校にも行って教えた。本当にあわただしかったという。

 「皇太子さまお生まれなった」はしばらくみんなが口にしたが、戦後、歌われなくなった。私が知っていたのは母が口ずさんでいたからで、母が教えた高等女学校の同級会が開かれると最後に校歌と奉祝歌が必ず歌われ、同級会に招かれて帰って来た母が口ずさんでいたからである。

 「あの歌はそれほど思い出深いものだったのよ」

 母は語っていた。

 それほどご誕生は喜びに溢れ、生徒たちには心に残ることだったのである。

 久しぶりにこの歌を聞いたのは天皇陛下の誕生日に皇居参賀に行ったときのことである。平成二年か三年か、天皇陛下のご挨拶があって、万歳三唱がやまないなか天皇陛下がお下がりになろうとしたとき、突然、この歌が後ろから聞こえてきた。振り返ってみると、六、七人の人たちが、直立して歌っていた。私も思わず口ずさんだ。

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飯塚 翔太(陸上短距離選手)

飯塚 翔太(陸上短距離選手)

 平成時代に生まれた競技者として

 天皇陛下におかれましては、ご即位三十年を迎えられましたことを心からお祝い申し上げます。また、平成の三十年間、国民統合の象徴としてのおつとめを果たされてきたことに、心から感謝を申し上げます。

 私は、平成三年(一九九一年)生まれです。平成の時代に生まれ、平成の時代に育ち、そして平成の時代を競技者として過ごすことができたことは、この上ない喜びです。また、平成二十八年(二〇一六年)のリオデジャネイロ五輪・男子四〇〇メートルリレーでは、銀メダルを獲得するなどの成績を挙げられたことも、大変光栄なことだと思っております。平成の時代は、振り返ってみると大変穏やかな時代で、競技の環境や周囲のサポートが整っており、競技に集中して取り組むことができました。

 陛下には、リオ五輪でメダルを獲得した後の、平成二十九年(二〇一七年)四月の園遊会にお招きいただき、初めてお目にかからせていただきました。その際、陛下から「凄かったですね、次も頑張ってください」と祝福の言葉をいただいたことで、もっと競技を頑張らなくてはいけない、という向上心が芽生えました。私の原動力の一つともなっております。陛下のお言葉に、これまで東日本大震災などの災害、あるいは各地を訪問される中で多くの国民が陛下のお人柄に接し、私のように勇気や希望をいただいてきたのだと感じました。

 平成の次の時代に初めて開かれる、二〇二〇年の東京五輪まで残すところ一年半を切りました。上皇となられました陛下に、東京五輪で躍動する私の姿を見ていただけるよう、これからも努力を重ねて参ります。

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井沢 満(脚本家)

井沢 満(脚本家)

 御在位三十周年を寿ぐ

 両陛下には、宮内庁の雅楽の演奏会でお目にかかっている。それも思わぬことに行き帰りに二度。

 直接お言葉を賜ることはなかったが目の前七十センチほどの至近であり、黙礼でご挨拶をさせて頂き僥倖であった。

 古来より日本というこの美しい扇の要に、常にいらしたのが天皇陛下である。四方を海の要塞に囲まれた日本は、外敵に攻め込まれることはなかったが、内なる戦は幾度も経験してきた。それでも我が国がバラバラにならずまた敗戦の灰の中から不死鳥として蘇ったのも要におわす天皇陛下のご存在のゆえであろう。

 皇室はまた日本の伝統文化の要塞でもあらせられた。日本語を含めた日本の美と礼儀作法、倫理の担い手であったのが従来は天皇陛下を頂点とする皇族の方々であった。

 また天皇陛下はあらゆる災厄よ我が身を通せ即ち「過度我身」というお覚悟で国と民との安穏を祈られて来た。

 四方拝における呪である。日出ずる国の天子としての勁い誇りとお覚悟あらばこそ。

 愚見だが神道はいわゆる宗教ではない。教祖も経典も持たぬ。古代の日本人たちの霊的インスピレーションによって得た「神との結びの道」であり我ら日本人の背骨である「精神」に他ならない。

 その頂点であり道標が、古来より天皇陛下であらせられた。

 「現人神」という言葉は敗戦により潰え去ったが、今なお天皇陛下は日本の神々とつながり祈る「祭祀王」であらせられる。

 皇居より祭祀が途絶えた時、いかなる災厄に日本が見舞われるか。非科学的と謗る向きもあるやに思われるが、よく保たれた神社内、なかんずく伊勢神宮に漲りわたる神気をありありと体感する者であれば、日本という国体にとって祭祀がいかほど重要な霊的位置を占めているか、半ば本能的に察知するのではないか。

 その祭祀もGHQにより「私的行為」としてその地位を引きずり降ろされたが、鎌倉時代に順徳天皇が「禁秘御抄」において「凡そ禁中の作法は、先ず神事、後に他事とす。旦暮敬神の叡慮懈怠無し」と記された如く、天皇陛下のご存在理由が最大唯一と言ってもよいほど祭祀にありと断じても差し支えなかろうと思われる。

 その余のことは些事、ひとえに祭祀をとわたくしは順徳天皇のご遺訓として胸に刻んでいる。

 わたくしどもは皇室における祭祀と伝統の重要性を、このたびの天皇陛下御在位三十周年記念を契機として改めて見つめ直したい。

 日本の祈りと伝統の堡塁としての皇室の弥栄と、営々と守り抜かれた男系皇統のつつがなく後世へとつながることを祈り奉る。

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石井 望(長崎純心大學准教授)

石井 望(長崎純心大學准教授)

 日本最西端の「くにのかたち」

 兩陛下はつねに偏頗無きお言葉を發せられる。それを著名人が勝手に解釋するので我々は惑ふのだが、このたびのご讓位については明確なお心を示された。退位ではなく讓位だと。

 退位と即位とを合はせて讓位だから、どちらでも良いと私は思ってゐた。歴史上で退位と呼ばなかったとしても、漢文の語彙として退位は普通に存在する。しかし新聞テレビの「退位」に對して、兩陛下は一貫して「讓位」と仰せなので、愚かな私も悟った。皇統聯綿を護られる明確なお心ありと。

 我が國柄は繩文一萬五千年、世界最古の文明である。紀元前一萬年といふ一線で切れば、世界には繩文以外に文明が存在しなかった。後の神武東征は征服王朝なのだが、しかし他國に類を見ぬ國讓りといふ平和融合的な「わがくにのかたち」で繩文が彌生に繋がった。大政奉還及び江戸開城は新たな國讓りとも呼ばれた。繩文を承け繼いだからこそ、その後に二千年乃至二千七百年の永祚を保つことができた。

 したがって國體の本義は文部省の定めた通り萬古不易に在る。變はらぬことこそが、くにのかたちなのだ。女系天皇の議論も答へは明確だ。男系で繋いで來たから今後も男系で繋ぐ。それ以上でも以下でもない。忖度するまでもない。

 繩文一萬五千年の本義に照らせば、國土の文明的境界線も極めて明確となる。北は千島、南は琉球、全て繩文遺跡が存在し、アイヌ人も沖繩人も血縁は繩文で繋がる。沖繩獨立を容認されるやうなお心は微塵も持たれない。だからこそ昨年は日本最西端の與那國島に足を運ばれた。

 八重山諸島に繩文遺跡は存在しないが、繩文以後のかなり古い時代から、住民は西日本人の遺傳子に外ならず、チャイナ人でも臺灣人でもない。近年の研究でますます明らかだ。

 尖閣諸島は最西端よりも内側に在る。山田宏議員が昨年紹介し、愚かにも始めて知った皇后陛下の御歌が次の通り。

「岬みな海照らさむと点るとき弓なして明かるこの国ならむ」

 これぞまさしくくにのかたちである。日本武尊、武内宿禰、坂上田村麿らが征服した熊襲も蝦夷も含まねば、列島は弓なさない。弓なす内に琉球弧と千島弧が這入らぬ筈もあるまい。

 歴代の元號には儒教も道教も乃至佛教もあった。今度の新元號には『日本書紀』に典を取れといふ議論もある。『日本書紀』には絶好の典故があるので、きっと既に候補入りしてゐるだらう。私は預測してゐるし、國民それぞれ預測を樂しみたいものだ。

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磯野 太(株式会社太田プロダクション 代表取締役社長)

 天皇陛下 御即位三十年

謹んでお祝い申し上げます。

 平成の時代を振り返りますと経済やテクノロジーなど様々な分野で目覚しい発展がありましたが、その反面残念ながら地震や台風などの自然災害が多く起こった時代でもありました。

 そのような大規模な災害が起きた時、両陛下は被災地へ駆けつけられ、被災された方々に温かい眼差しで励ましのお言葉をおかけになられます。両陛下のお見舞いに、被災された方々はどれほど安堵し、勇気づけられ、生きる希望を見出したことかと存じます。またそのご様子をテレビなどで拝見するたびに我々国民は希望を見出すことが出来ます。天皇陛下は我々国民を常に優しく包み込んでいただいており、我々の心の支えになっておられます。

 ここに改めて天皇陛下への感謝と御即位三十年のお祝いを謹んで申し上げると共に、一層のご健勝と皇室の弥栄をお祈り致します。

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稲本 潤一(プロサッカー選手)

稲本 潤一(プロサッカー選手)

 天覧試合の記憶

 天皇陛下におかれましては、御即位三十周年を迎えられましたこと、衷心よりお慶び申し上げます。いちサッカープレイヤーとしてこのような祝辞の機会を賜り、恐縮するとともに感激いたしております。

 両陛下ともご幼少の頃より複数のスポーツを嗜んでこられたかと心得ておりますが、御在位中にも多くの競技を実際にご観戦あそばされたことと存じます。

 サッカーのご観戦も幾度かあそばされたなかで、私としてはやはり二〇〇二年五月二十五日に開催された日本代表対スウェーデン代表の親善試合にて、スターティングメンバーとして出場した姿をスタジアムでご覧いただけたことが印象深く、大変光栄なこととして今も深く記憶に刻まれております。

 その後に韓国と共催されたワールドカップでは決勝の試合もご覧になられていましたが、陛下のご注目くださる大会に出場できたことも同じく光栄なことと存じております。

 御即位あそばされた後はちょうど日本サッカー界が大きな発展期を迎え、今日では海外で活躍する選手が次々に現れるなど、日本サッカー協会の名誉総裁をお務めになる高円宮妃殿下のもと世界でもその存在感を高めた時期でした。両陛下が御在位あそばされた平成という時代は、日本サッカーの歴史においてもまさにそうした年紀として我々の記憶に残っていくものと期待いたしております。

 私といたしましては、残された現役生活とその先にある活動を通して、来たる新たな時代も日本サッカーに貢献していく所存でおります。

 改めて御即位三十周年をお祝い申し上げるとともに、今後の両陛下のご健康とご多幸を心より祈念申し上げます。

 以上、僭越ながら奉祝の言葉に代えさせていただきます。

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イルカ(シンガーソングライター・IUCN国際自然保護連合親善大使)

イルカ(シンガーソングライター・IUCN国際自然保護連合親善大使)

 狸と虹の彼方に

 いつの日も私たち国民に深く寄り添い安寧と豊穣をお祈り下さいました天皇陛下には心からの感謝を申し上げます。

 私は幸せな事に天皇・皇后両陛下に二度もお話をさせて頂く機会に恵まれました。一度目は三十数年前、天皇陛下が皇太子様でいらした時の事です。チャリティーコンサ―ト「じゃがいもの会」に御臨席を賜り、コンサート後に出演者のみの懇親会が有りました。皆が大変緊張しておりましたので両陛下が積極的にお話しかけて下さり、とても和やかな雰囲気の場になりました。

 私へは「お歌いになったあの歌はミュージカル映画でしたか?」とお話しかけ頂き「はい。『虹の彼方に』という歌です。」とお答えすると「そうでしたね!大好きな歌ですよ」と仰って下さいました。そして美智子様からは「今日はお子様が!お留守番だそうですね。早く帰って差し上げてね」と御公務にお忙しいお母様としての有難いお言葉を頂き、今も優しいお声がジーンと胸に蘇ります。

 平成二十六年には「秋の園遊会」にお招き頂きました。私はIUCN国際自然保護連合の親善大使を務めておりますが「生物多様性」を広める為に歌のみならず、近年は着物のデザインと手描きをしています。この年は丁度「秋の里山」を描いたのでこの自作の着物で伺いました。天皇陛下から「イルカという名は何故に?」とご質問を受け、この時も周囲の皆様からドッと笑いが起こり私は緊張感から解放されました。その時私は思い切って「陛下!狸の食性についての御研究は如何ですか?」とお尋ねした所、微笑まれて「そうですね…最近はあまり熱心にしていませんが続けますよ。」と仰いました。実はこの時私は自作の着物の後ろに狸を描いていたので、どうしてもお伝えしたく思いました。

 しかし背を向けるのは失礼と思いましたので体を思い切りひねってご説明しますと「まあ!狸ですね!」と皇后様が発見して下さり、陛下も「おー狸だねー」と大いに笑って下さいました。

 そして「これからも人間と生き物との架け橋となれる様に精進致します」と申し上げますと、天皇陛下が私の正面にお立ちになり強く頷いて下さいました。

 それから暫くして新聞に「天皇陛下が狸の論文を提出」という記事を拝見した時は本当に感動致しました。お忙しい御公務の中でも論文を完結された陛下に深く尊敬の念を抱きました。

 これからは御自身の為のお時間が増えます様に。両陛下のご健康を心からお祈り申し上げます。

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岩本 しず子(元 神戸市立本山第二小学校校長)

岩本 しず子(元 神戸市立本山第二小学校校長)

 感謝

 一月十六日、歌会始の儀をテレビで拝聴していましたときに、天皇陛下の御製に胸が震えました。

「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」

 二十四年経った今もなお、御製を通して、全国各地の被災地の一人ひとりに思いを馳せていただいています幸せを強く感じました。

 「はるかのひまわり」のはるかさんは、震災当時、私が在職していました神戸市立本山第二小学校の明るく優しい六年生でした。はるかさんが亡くなった年の夏、倒壊した自宅の後にひまわりが咲きました。近所の方が、はるかさんへの切ない思いと重ね、災害で亡くなった方への鎮魂と、あの花の明るさと逞しさを復興の象徴として、毎年花を咲かせていきました。その種は、はるかさんのお姉様と多くの方々の協力を得て全国各地に届けられました。一粒の種を通して、国民一人ひとりに、両陛下は御心をお寄せ下さいますことがひとしお有り難く感謝で一杯でございます。

 大震災六年後も両陛下の行幸を賜りました。

「六年の難きに耐へて人々の築きたる街みどり豊けし」

「園児らとたいさんぼくを植ゑにけり地震ゆりし島の春ふかみつつ」

 復興に励む人々へ、また未来を担う子ども達への温かい大御心に手を合わせていました。

 平成十八年、皇后陛下の御歌には、

「笑み交はしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ」

 この御歌は、神戸市役所南側の東遊園地の歌碑に刻まれています。見守っていただいていると感じますと、安堵の思いと前に向かう活力が湧いてきました。私は、今もこの碑の前に来ますと自ずと頭が下がってまいります。

 大震災の二週間後、粉雪が舞う中、運動場でテント生活を余儀なくしていました神戸市立本山第二小学校に両陛下のお見舞いを賜りました。私たちは勇気と希望を与えていただきました。慈悲に満ちた眼差し、真心のこもったお言葉を賜ったあの日あの時の感激は、今なお私たちの心の支えとなっています。

 御在位三十年の奉祝にあたりまして、両陛下に心より感謝を申し上げますとともに、一層のご安寧と皇室のますますのご繁栄をお祈り申し上げます。

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宇崎 竜童(音楽家)

宇崎 竜童(音楽家)

 天皇陛下のお声は心に響く倍音です

 天皇陛下御即位三十年、心よりお祝い申し上げます。

 皇后陛下とご一緒に国民に寄り添ってこられた三十年。諸外国との友好親善、被災者のお見舞い、国民の幸せを願ってこられたご活動に、感謝をし、深い感動を覚えてまいりました。

 平成十八年、妻の阿木燿子が紫綬褒章を頂きました折、初めて間近で拝聴致しました陛下のお声は、低音と高音が同時に発せられる倍音でした。

 深く心に響く素晴らしいお声で、お歌もお上手でいらっしゃるに違いないと想像致しました。その後、陛下のお声に接する機会が幾たびか御座いました。

 平成三十年十二月、私達夫婦がライフワークとしております「Ay曽根崎心中」新国立劇場公演に御行幸を賜りました折は、案内役として同席させて頂きましたが、両陛下のご質問に、そのお声に聞き惚れてしまい即答できませんでした。

 終演後、天皇陛下のスペイン御訪問時のお話、皇后陛下のミュージシャンの使用楽器についての、又、衣装についてのご質問にも、きちんとお答え出来なかったにも拘らず、天皇陛下は包み込むような響きのあるお声で、そして皇后陛下は美しい高音で、同席した者たちの心に残るお話をして下さいました。そして私達は一生の想い出になるひと時を頂きました。

 「人々の傍らに立ち、思いに寄り添うこと」を大切になさっていらっしゃった三十年に心から感謝致しますと共に、天皇皇后両陛下の益々の御健康をお祈り申し上げます。

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宇野 昌磨(フィギュアスケート選手)

宇野 昌磨(フィギュアスケート選手)

 天皇陛下御即位三十年、心よりお慶び申し上げます

 この度、御即位三十年をお迎えになられましたことを心よりお祝い申し上げます。

 長きに渡り日本の象徴として、被災地のお見舞いや戦没者慰霊などで多くの人々に寄り添われ、また、障害者スポーツをはじめスポーツ大会の振興にも力を尽くしてこられたことを国民の一人として御礼申し上げます。(私も日々自らを高め、人々の心に届く演技を極めていきたいと思っております。)

 幼い頃よりいつも共におられる両陛下の姿を拝見してまいりました。

 いつまでもお二人で健やかにお過ごしになられますよう、天皇皇后両陛下のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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梅澤 昇平(尚美学園大学名誉教授)

梅澤 昇平(尚美学園大学名誉教授)

 天皇陛下御即位三十年を奉祝します

 天皇陛下の御即位三十年をお慶びするとともに、御退位に際し、この間のご業績ご足跡に対し、深く感謝申し上げます。あわせて御皇室の弥栄を祈念申し上げます。

 平成の御代は、様々なことがありました。特に大震災をはじめ幾多の災害に見舞われました。その間、多くの国民が毅然たる態度をとるとともに、それを支え、励ましていただいた天皇皇后両陛下のお姿を国民は決して忘れることがありません。

 諸外国の激しい権力闘争を耳にするたびに、日本には、政争から屹立する、こんな素晴らしい皇室があるのだと、改めて、その存在に感謝いたします。二千数百年を超える、奇跡ともいうべき、皇統の歴史が、今後とも、日本の宝として絶えることなく続くことを願わざるを得ません。

 平成の御代の相次ぐ災害に対し、御皇室の精神的励ましとともに、災害に物理的に立ち向かってくれた関係者の尽力を忘れることが出来ません。消防、警察、自治体の活動はもとより、最前線で活躍された自衛隊の存在は目覚ましいものでありました。しかし全国で六割の自治体が自衛官の募集活動に消極的であり、中学社会科教科書や憲法学者の八割が自衛隊違憲論をとっている異常事態が続いています。

 願わくば、御代替りのこの機会が、憲法で自衛隊が明記される改憲の機会となり、悠久の皇統と平和が続くよう微力を傾注する決意であります。

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大木 凡人(日本司会芸能協会会長)

大木 凡人(日本司会芸能協会会長)

 感激のあまり和歌を詠んだあの日

 昭和から平成という、激動の時代を歩まれた天皇陛下。次の時代の未来を考え、深い感慨と共に、五月から皇太子様が新しい御代を歩まれる。「象徴としての天皇のあり方の行動を」と、おっしゃられた皇太子様。一方、国民で、陛下にお会いした人達は、「お会いして本当に良かった」と、心から感謝。特に台風、地震等、困難にあった人達にとっては、どれ程の励みになった事か、はかりしれない。ある日、愛媛県の母が東京にいる私の所に、親戚の皆さんを、引き連れやって来た。聞けば、皆で、「全国親戚めぐり」なるものを企画し、やって来たとの事。私が、「何処へ行きたい?」と、聞くと、「皇居じゃ!」と、即答!! 皆を二重橋正面の場所に案内すると、母は真っ先に手を合わせ、全員それにならって手を合わせた。そして私に向って一言。「これでもう思い残す事は無いよ。有難うな」と。三年前に天国へ旅立った。

 私も偶然、東京は都立大学駅前をお通りになられる時、お姿を拝見し、感激した。昨日の事のように、お姿が浮んで来る。そのあと、感激さめやらぬまま家路につき、和歌を書きました。

 「笑顔にて お手振る姿 清々し

 胸キュンとし すぐ頭たれ」

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小山 和伸(神奈川大学経済学部教授・経済学博士)

小山 和伸(神奈川大学経済学部教授)

 誠実なる大御心を戴きて

 昭和四十六年八月、富士山麓朝霧高原で開催された世界ジャンボリーに、当時高校二年生であった私は、シニア・スカウトとして参加した。世界中から集まった二万数千人のボーイスカウトが、十日間に亘ってキャンプ生活を共にする祭典の、開会式に御臨席遊ばされた時の皇太子殿下並びに妃殿下は、式典の後マイクロバスで広大なキャンプサイトを御見学になられた。

 お先ぶれのジープに続いて、左後方より近づくバスを、私は一人挙手の礼を以てお見送りした。先頭の座席に凜々しく着座される殿下の右隣に着席された妃殿下は、手を振ってお応え下さった。バスが通り過ぎても、妃殿下は上体を屈めてお振り返りになり、窓越しに手を振りながらお辞儀をして下さった。この時の気品に満ちた優しく美しい笑顔と、御誠実なお姿を私は決して忘れることが出来ない。

 もう一話。天皇皇后両陛下が、ドン・キホーテをテーマにした演劇『ラ・マンチャの男』を御覧になられた折、終演後ロビーで拝謁した主演の松本幸四郎氏は、第二国立劇場の必要性を力説した。御力添えを懇願された皇后陛下は、「それでは、私もドン・キホーテにならなければなりませんね」と応じられた。真に当意即妙の粋と言う他はなく、誰をも決して傷つけることなく、明るい笑いと敬意に満ちた華やかな雰囲気の中に、全てを和ませる、魔法のような言霊が息づいている。

 さらに、もう一話。平成二十一年十一月十二日、皇居前広場で開催された御即位二十年奉祝行事では、宵の口まで続いた雨が奇蹟のように止み、深い夜霧に包まれた。祝賀行事の後に御挨拶に立たれた天皇陛下が、「皆さん、寒くはありませんでしたか」と仰せられた時、その御言葉の優しさと御声の暖かさに涙が止まらなかったことを覚えている。

 両陛下の誠実なる大御心は、既に無数の慰霊の行幸啓に明らかであるが、危急存亡の驟雨に際して、日嗣の天皇陛下は国家万民の祈りを映す七色の虹となって、国民意識の眼前に御出ましになる。かかる誠実な大御心を戴く国民の幸福は計り知れない。

 三十年を以て終わり行く今上陛下の御代を、一首を献じて懐かしみ、また感謝の意を表したいものと思う。

 三十歳の 大御心の並びなく

 深き誠ぞ 世に有り難き

平成三十年十二月二十七日

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加瀬 英明(外交評論家)

加瀬 英明(外交評論家)

 日本は奇蹟の国である

 御代替りが決まってから、メディアでも、人々の日常会話のなかでも、ことあるごとに、「平成最後の」といわれるようになった。

 日本国民にとって、皇室の存在がいかに大きなものであるか、あらためて痛感させられた。

 天皇と国民は、悠久の歳月を超えて、心によって結ばれている。日本は天皇の国だ。

 日本国憲法がどのように規定しようが、万世一系の天皇が、日本を統べておられる。天皇は日本語が日本人をつくっているのと同じように、天皇の存在こそ、日本を日本たらしめている。

 今日、世界に二百近い国々が存在しているが、元首の家系が二千年以上も辿れる国は、私たちの日本しかない。

 世界のなかで日本ほど、人と人との和を重んじている国はない。

 一億二千万人もの人口を擁しているというのに、国民が同質だと信じている国も、他にない。

 天皇を至尊として崇め、天皇を中心とする国柄が存続してきたからだ。

 福沢諭吉が『帝室論』(明治五)年のなかで、「日本国民にとって至大至重のものは、帝室の外にあるべからず」と、説いている。

 諭吉は、天皇が「日本人民の精神を収攬する中心なり。人民これを仰げば以て悠然とし、和気を催す」と、また述べている。

 諭吉は、「帝室は直接に万機に当らずして、万機を統べ給う者なり。直接に国民の形体に触れず、其の精神を収攬し給ふものなり」とも、論じている。

 天皇は他の国々と違って、覇者ではない。歴史を通じて民の幸せを祈られ、徳の源泉であってきた。二十一世紀に入っても、天皇は日本の精神的な中核でおられる。

 「天皇に私なし」といわれるが、日本においてのみ、当て嵌まる言葉だ。他の君主国の君主は、すべて覇者の血統をひいている。中国、北朝鮮のような独裁国家の権力者はいうまでもなく、民主制度をとっている諸国においても、首長は選挙に勝った覇者である。

 天皇を戴いてきた日本は、奇蹟の国である。

 御代替りに当たって、このような国に生まれた幸せを噛みしめたい。

 天皇陛下は神代から伝わる祭祀を、真摯に守ってこられた。

 神話時代から歴史にまったく断絶がない、有難い国柄を称えたい。

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片岡 鶴太郎(俳優・画家)

片岡 鶴太郎(俳優・画家)

 奉祝の辞

 天皇陛下におかれましては御即位三十年を御迎えになられ謹んで御祝い申し上げます。

 この永きにわたり国家を、そして国民の平和を常に想い、願い、御祈りなされる天皇陛下の御姿を拝見する度に心打たれ胸熱く致して居ります。ひとりの国民として心より感謝申し上げます。

天皇陛下、皇室の益々の御繁栄、御健勝を心より御祈り申し上げます。

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桂 由美(ファッションデザイナー)

桂 由美(ファッションデザイナー)

 心うたれる和歌

 平成三十年十二月二十三日

 幾度か声をふるわせながら国民に対して「象徴の旅」と題して語られた天皇陛下の御声は同じ時代を生きぬいて来た国民の一人として涙なしに拝聴することは出来ませんでした。

 毎日の食事すら充分にとれなかった第二次世界大戦時代の幼少期、焼野原になった東京での戦後の混乱期をすぎて国民に明るい希望の灯をともして下さった立太子礼、御成婚パレード。ありし日の天皇・皇后両陛下の御姿が走馬灯のように浮かび上がって来ます。

 日本国民にとってお二人の御姿は夫婦の理想像であり、皇室御一家は家族の理想像であったと思われます。特に天皇陛下が伴侶として選ばれた皇后様が賢明で思慮深く、思いやりのある女性であったことが、常に国民と共に歩もうと盡力されている天皇陛下の最も力強い同志になられたと拝察されるのです。

 私はよく取材で「ファッションデザイナーとしてあなたが世界で最もエレガントな女性を一人あげるとすれば?」ときかれることがよくあるのですが、私は、迷わず「日本の皇后陛下」と答えています。

 ファッション・動作もさりながら最もエレガントなのは御声で、あれだけは誰にもまねが出来ません。

 或る時お茶会に招かれて皇后陛下の前に立った時、当然私など御存じないと思って自己紹介をしようとした時「よく存じておりますよ。方々でお名前を拝見しています」とおっしゃいました。私のウェディングドレスを扱っている衣裳店は全国に六十店あるのですが大きな看板を出している店が相当あるのです。本当に恐縮しましたが私の名を知っていて下さったことは嬉しかったです。

 皇后陛下の人に接する態度・言葉づかいにはいつも感心させられますが特に次の和歌には心うたれるものがあります。

 ことなべて御身ひとつに負ひ給ひ
  うらら陽のなか何思すらむ

 国民統合の象徴という重責を常に全身全霊で果さんとされている天皇陛下の御姿を妻として同志としてじっと見つめていらっしゃる皇后陛下の御姿が目に浮かびます。本当に私たちはすばらしい皇室を頂いているのだと痛感する一首です。

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葛城 奈海(ジャーナリスト)

葛城 奈海(ジャーナリスト)

 天皇陛下御即位三十年に寄せて

 平成二十四年七月十八日、明治天皇百年祭で天皇皇后両陛下が明治神宮をご参拝された。明治神宮武道場至誠館の講師のひとりとして、私もお迎えの列に加わった。両陛下のお姿を直接拝見したのは、このときが初めてであった。それまで、おふたりは常に寄り添っておられる印象が強かったため、このとき、まずは天皇陛下が、そして、皇后陛下が、おひと方ずつ参拝されたことが意外であった。皇后陛下といえども、歴代の天皇霊を受け継ぐ天皇陛下は別格なのだとの説明が感慨深かった。

 日の丸の小旗を振りながらお迎えした約八百名に、両陛下はそれぞれ慈愛に満ちた表情で応えられた。しみじみと温かい気持ちにさせられるご会釈に、常に「国安かれ民安かれ」という祈りで私たちを包んでくださっている両陛下と、両陛下を敬愛する国民との一体感を感じた。奉送迎者との間には、ロープの一本もなかった。

 これは私たち日本人にとっては当たり前の光景なのだが、国のトップに立つ存在が、このように緩やかな警備で公の場に出られるというのは、稀なことらしい。明治神宮には、その後、オバマ米国大統領(当時)も参拝したが、そのときは神宮職員でさえ各施設から一歩も出ないようにと厳命されるほどの厳戒態勢だったという。世界中の「敵」から命を狙われ続けている米国大統領と、徳をもって人々と膝を交えられる天皇陛下。警備体制にも、ご存在の差が如実に感じられた。

 国民を「大御宝」として大切に思ってくださる両陛下にとって、平成の三十年間で悔いがあるとすれば、拉致被害者を救出できなかったことではなかろうか。被害者五人が帰国した平成十四年、お誕生日に際して皇后陛下はこう述べられた。

 「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。今回帰ることができなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入の淋しさを思います」。

 あれから十六年。いまだ帰国を果たせない被害者を誰よりも案じ、一日千秋の思いで待ちわびるご家族の思いに寄り添い続けてこられたのは、他ならぬ天皇皇后両陛下であろう。そんな両陛下を頂く国の民であることを誇りに思うのと同時に、大御心に添える国民でありたいと切に思う。

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加藤 いつか(『はるかのひまわり』著者)

加藤 いつか(『はるかのひまわり』著者)

 「はるかのひまわり」を詠んでいただいて

 天皇陛下、皇后陛下、御在位三十周年おめでとうございます。そして、歌会始で「はるかのひまわり」を詠んでいただき、ほんとうにありがとうございます。

 阪神淡路大震災から二四回目の日を迎えようとしていた今年の一月十六日、生まれたばかりの娘と一緒に平成最後の歌会始を観ようとテレビをつけていました。その中で天皇陛下の詠まれたお歌が「はるかのひまわり」でした。

 私は阪神淡路大震災のときに、当時小学六年生だった妹・はるかを亡くしました。妹が亡くなった自宅跡に偶然ひまわりが咲きました。そのひまわりの種を、妹の同級生のお父さんだった方が地域の方々と一緒に復興途上の神戸の街に蒔くという活動を始められました。妹の名がついた「はるかのひまわり」は、神戸から全国に広がっていきました。平成十七年、両陛下が「阪神・淡路大震災十周年追悼式典」で神戸にいらっしゃられた折に、そのひまわりの種を私の知り合いの女の子が皇后陛下にお渡しし、種は皇居のお庭に植えられたと聞きました。

 歌会始をテレビで観ていて、私たちにも伝わるように、ほんとうにわかりやすく、ひまわりの歌を詠われたのだと驚きでいっぱいでした。その日は新聞やテレビの取材がたくさん来ました。すごいことなのだと少しづつ実感が湧いてきました。

 被災地となった神戸では、よくテレビで「心を寄せて」というフレーズを聞くことがありました。私はその意味をあまり理解できてはいませんでした。それが今回の歌会始で実感できました。災害が続いた平成の時代、被災地への両陛下の思いを感じました。まさしく「心を寄せて」を実感する歌でした。

 災害の記憶がどんどん薄れていき関心がない人も多い中、毎年咲いたひまわりから種を取り、その種を翌年に蒔いて育てられていることに感謝の気持ちしかありません。もう少し娘が大きくなったら夏の皇居のお庭に咲いている「はるかのひまわり」を観に行き、娘に話したいと強く思います。

 歌会始で詠んでいただいたことで、全国の皆さんがあらためて「はるかのひまわり」のことを知り、一度は絶版になっていた本『はるかのひまわり』をもう一度世に届けることもできました。はるかの姉として感謝の気持ちをお伝えしたいという思いとともに、両陛下に心を寄せていただいたことをとてもうれしく思います。七年前に亡くなった母にも歌会始のことを伝えたいと思います。ありがとうございます。

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北 康利(作家)

北 康利(作家)

 「かたじけなさに涙こぼるる」

 わが家の誇りは、畏れ多くも両親が天皇陛下、皇后陛下と同い歳。のみならず兄弟二人が皇太子殿下、秋篠宮殿下と同い歳という偶然にある。

 母の名は池鶴子。千羽鶴にちなんだ千鶴子という名前の方は世に多くいらっしゃるが、池鶴子というのは珍しい。よく書き間違われもするのだが、母はこの名前に誇りを持っている。それは年末に生まれた彼女が迎えた新年(昭和十年)の歌会始のお題「池辺鶴」からとられたものだからだ。

 歌会始のお題から名前をいただいたからかはわからないが、彼女は長じて文学少女になる。そんな母は若い頃、「女学生の友」といった文学雑誌の投稿欄で“正田美智子”という名前を大変頻繁に目にしたという。それから十年近く経って皇太子妃に決定されたときに、その名前がよみがえってきたくらいだから、よほど印象が鮮烈なものだったのだろう。

 その話を幼い頃から何度も聞かされて育ったからか、こうして私は作家となり、神社新報に「こもれび」というコラムを連載したりもしている。“皇室とのご縁”などと不敬なことを言うつもりはない。ただ、いつも心の中に両陛下の存在があった。それは表現のしようもなく心温まるありがたいことであった。

 その感謝の気持ちをタイトルの西行の歌に込めさせていただいたが、あらためて天皇陛下御即位三十年を心よりお祝い申し上げるとともに、皇室のますますの弥栄を祈念申し上げたい。

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北野 武(タレント・映画監督)

北野 武(タレント・映画監督)

 お祝いの言葉

 天皇皇后両陛下におかれましては三十年の長きにわたり、国民の安寧と幸せを祈り、国民に寄り添い、広く世界の平和と人々の安寧を祈っていただき、多忙な公務を果たしていただき、深く感謝いたします。平成二十八年八月、陛下は次のように述べておられます。

 「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」。

 去る茶会の折、陛下は私に、「交通事故の体の具合はどうですか? あなたの監督した映画を見ています。どうか体に気を付けて頑張ってください」とお声がけいただきました。そのときの感動はこれまで経験したことがないものでした。

 陛下は象徴天皇としての望ましい在り方をずつと求め続けながら、その一つの答えとして「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を導き出し、その望ましい在り方もずっと求め続けていらしたのではないか。だからこそ寄り添って発せられるお言葉であれほどの感動を与えることができるのではないか。

 昭和が戦争の時代とすれば、平成は災害の時代でした。平成三年の雲仙・普賢岳の噴火、平成五年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり、平成七年の阪神・淡路大震災、平成二十三年の東日本大震災の他、数多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、数知れぬ人々が被害を受けました。そして災害ニュースの中には必ず、天皇皇后両陛下が被災地をご訪問され、被災者らに寄り添う御姿が映し出されていました。その時に寄り添って発せられたお言葉にもそのような力があったのだろうと想像いたします。

 このような陛下のいる日本という国に生を受け、幸せに思います。

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紀平 梨花(フィギュアスケート選手)

紀平 梨花(フィギュアスケート選手)

 天皇陛下御即位三十年と御退位によせて

 平成三十一年一月、天皇陛下には御即位三十年をお迎えになり四月には御退位されることになりました。謹んでお祝いと感謝を申し上げます。

 私は平成十四年に生まれ、まだ十六歳の高校生ですが、この十六年間にたくさんのことを学びました。

 その中でも特に印象に残ることは天皇陛下が自然災害による被災地の訪問を続けられ、被災者の皆さんの言葉に耳を傾けられ励まされ勇気づけられたことでした。

 私は微力ですが、フィギュアスケートを通じて人々に夢と感動を抱いていただけるようにこれからも努力していきたいと思います。

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坂田 藤十郎(公益社団法人日本俳優協会会長・一般社団法人伝統歌舞伎保存会会長)

坂田 藤十郎(公益社団法人日本俳優協会会長・一般社団法人伝統歌舞伎保存会会長)

 忘れられない温かい想い出

 今上陛下のご即位三十年、まことにおめでとうございます。この間、陛下と美智子妃殿下が、私たち国民に常に温かいまなざしを向けられ、かつ世界の平和のために貢献されたことは、どんなに感謝しても足りないほどです。

 私個人としての陛下との想い出も、数え切れないほどございます。

 天皇皇后両陛下にお食事をご馳走になりましたとき、ちょうど私は『源氏物語』の芝居で桐壺帝のお役を演じることになっておりました。その台本に、私が「まろは…」と言うせりふがありましたので、不躾ながら陛下に向かい、「陛下はご自身のことを『まろ』と仰せになるのでしょうか、または『朕』と仰られるのか、どちらでしょうか?」と質問申し上げましたら、陛下が美智子皇后に「どちらも、別にね」と相づちを求められ、「後日調べておきましょう」と仰せになり、恐縮いたしました。

 またあるときの園遊会で、そのときは妻の扇千景の夫としてお招きをいただいておりましたので、宮内庁からのご案内は私の本名の「林宏太郎」でございました。園遊会の当日、両陛下が私たち夫婦の前にいらせられたとき、皇后陛下が私の胸の名札に目をとめられ、「あら、今日はお名前が違いますのね」と仰って、陛下とお顔を見合わせて微笑まれました。いつもの芸名でないことにお気がつかれたことで、まわりも大笑いにつつまれました。その和やかなひとときが、いまでも目に浮かびます。こうした細やかなお心遣いのありがたさを想い出すたびに、心のなかが感謝の気持ちでいっぱいになります。どうか両陛下ともに、いつまでもご健康で長生きなさっていただきたいと、こころより願っております。

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櫻井 よしこ(ジャーナリスト)

櫻井 よしこ(ジャーナリスト)

 御代替わりにあたり、いま国民が問われていること

 平成の御代が完結する。美智子皇后陛下は初めて庶民から皇室にお輿入れなさり、お子さま方を自らお育てになり、新しい皇室の形を作られた。天皇陛下は国民の幸せと国家の安寧を祈り、皇后さまを伴われて国民に寄り添い、国民と共に歩まれた。

 お二方は二千七百年近い日本の歴史の重みを担われつつ、平成の皇室の在り方を模索なさり、独自の形を築かれた。

 時代によって多少の変遷はあっても、皇室の重要なお役割が祭祀にあるのは間違いないが、今上陛下はどこにいらしても日本国の大祭主として、祈りを大事になさるとうかがっている。平成の御代の特徴が祭祀を重要視することだというのは多くの専門家の一致した見解であろう。

 今上陛下の六代前、直系の御先祖である第一一九代光格天皇はこのうえなく祭祀を大事にした。光格天皇は幾百年、幾世代も中断されていた新嘗祭や大嘗祭など、重要な宮中祭祀を再興、復古したことで知られる。皇室の存在意義は宗教の主宰者であることだと認識し、祭祀を司る責任を完うした。日本の国柄の真髄を生きる祭祀王は、如何なる人物にも代役が務まらない。そこから生まれる特別の権威を古来の形にしたのが光格天皇だ。

 平成の御代が完結に近づくいま、私たちの課題は多く大きい。まず第一に、昭和二十年の敗戦を機に根本的に変えられた皇室の在り方を如何にして立て直すかが問われている。

 天皇陛下は現在、祭祀を私的行為として行っていらっしゃるが、そんなことでよいはずがない。祭祀を天皇の公的行為であると位置づけ、祭祀にかかわる活動を国が支える体勢を作らなければならない。

 皇位継承の安定化にも十分心を配らなければならない。悠仁親王殿下が天皇に御即位なさるとき、現状のままでは皇族はどなたもいなくなりかねない。お一人で皇室を中心軸として続くわが国の国柄、伝統、歴史を担われるのか。その先はどうなるのか。早急に旧宮家の皇族復帰などの具体策が必要だと、考えざるを得ない。

 悠仁親王殿下をお守りするにも皇族をふやさなければならない。五十年、百年先の日本を見越して、今上両陛下のお考えを尊重しつつ、叡智を結集するときであろう。私たち国民も、国民代表としての政治家も、現代に生きる日本国民として悠久の日本の歴史とその永続性の担保に責任を持つべきときだ。

(平成30年11月27日 天皇陛下御即位三十年奉祝委員会設立総会 祝辞の内容に加筆修正いただいた内容です)

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白駒 妃登美((株)ことほぎ代表取締役)

白駒 妃登美((株)ことほぎ代表取締役)

 天皇陛下ご即位三十年に寄せて

 天皇陛下の御即位三十年を、心よりお慶び申し上げます。

 私は日ごろ講演活動や著作活動を通じ、日本の歴史や文化の素晴らしさを発信しておりますが、その活動のきっかけを与えてくれたのは、大学時代に二週間ホームステイをさせていただいた、オーストラリアのホストファミリーのお母さんでした。あれから三十年以上が経ちますが、私の心の中で輝き続ける彼女の言葉を、そのまま文字にいたします。

「オーストラリアという国はね、まだまだ歴史が浅くて、二百年ちょっと。でも、日本はすごいわね。二千年以上も続く、世界最古の国なのよね? その日本が、一旦は戦争に敗れ、焼け野原になった。日本が再び立ち上がるのは無理だと誰もが思ったけれど、あなたたち日本人は、瞬く間に奇跡のような戦後復興を果たした。私たちオーストラリア人は、歴史が浅いから、日本の長い歴史に憧れるの。そして奇跡の戦後復興に勇気をもらっているのよ」。

 初代神武天皇の即位をもって日本建国とされ、第百二十五代今上陛下に至るまで、二千六百年以上もの長い間、連綿と歴史が紡がれてきた││。そのような国に生を享けたことは、なんと幸せなことだろうと、私は、一人のオーストラリアの女性との出会いをきっかけに、日本人の誇りを取り戻していったのです。

 長きにわたる歴史の中で、もちろん何度も、わが国はピンチに見舞われました。古くは千三百五十余年前の白村江の戦い、鎌倉時代の二度にわたる元寇、幕末のペリー来航から日清日露、そして先の大戦││。そのたびに先人たちは、チーム一丸となり、それぞれが与えられた場で最善を尽くすことで、ピンチを乗り越えてきました。現在でも、自然災害が起こるたびに、私たち日本人は心を一つにして乗り越え、それが海外からの賞賛の的になっています。

 日本人は、なぜこれほど逆境に強いのか。どうして心を一つにできるのか。それはひとえに、皇室の存在があったからだと思います。私たち国民を“大御宝”として慈しんでくださる皇室と、その“大御心”に感謝し、誠の心を捧げてきた日本人。その君民の絆が、世界に類を見ない、唯一無二の歴史を紡いできたのだと思います。

 ここに改めて天皇陛下への感謝と御即位三十年のお祝いを申し上げるとともに、より一層のご健勝と皇室の弥栄を心よりお祈り致します。

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千 玄室(裏千家前家元・公益社団法人日本馬術連盟会長)

千 玄室(裏千家前家元)

 天皇陛下御即位三十年に寄せて

 天皇陛下が御即位になられ三十年の節目を御迎えになられましたことを、心よりお慶び申し上げますと共に、長きに渡り温かい御心で国民に寄り添ってくださいます天皇陛下に、衷心より感謝の意をお捧げいたします。

 振り返れば、天皇陛下は少年の頃に疎開され、十一歳で終戦を迎えられ、一方ならぬ御苦労をされました。御即位後には、沖縄をはじめサイパン島、パラオのペリリュー島、そして、フィリピンのカリラヤ島など、戦没者の慰霊の為に御訪問されました。そして何より、先の大戦を含め苦難の歴史をたどってきた沖縄には特に御心を寄せられ、皇后陛下と御一緒に十一回も御訪問になられましたことは、沖縄戦での多くの民とともに戦没者への御慰めとなり、沖縄の方々に大きな励みとなられたことであると存じます。

 平成の時代は阪神・淡路大震災や東日本大震災など数多くの災害が、また平成最後となる昨年も西日本豪雨などの災害が発生し、多くの人命が奪われ、また被災された各位も多い中、天皇皇后両陛下は、いち早く被災地に慰問に赴かれ、被災者一人一人に御慰めや激励の御言葉を御掛けになりました。御遺族や被災者の皆さんがどれほど心を慰められたことでしょうか。

 今春、天皇陛下の御譲位と新天皇陛下の御即位の諸儀式が古式ゆかしく執り行われますが、三十年間、国民に寄り添ってこられた天皇陛下に、感謝の誠を捧げる素晴らしい奉祝事業が執り行われることは、誠に意義のあることと、国民の一人として大変光栄に存ずる次第であります。

 今後も、天皇陛下への想いを寄せ、感謝を捧げると共に、御健勝を心より祈念申し上げます。

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髙橋 史朗(麗澤大学大学院特任教授)

髙橋 史朗(麗澤大学大学院特任教授)

 一生忘れられない二つの思い出

 平成二十年に大分県で開催された国民体育大会に埼玉県教育委員長(埼玉県選手団応援団長)として参加した折に、夜のパーティーで天皇陛下とお話する機会に恵まれました。両陛下とお話をしたい希望者が長い列を作っておりましたので、とても無理と思っておりましたが、面識のない方が私の手を取って前の方に並んでおられた山下泰裕氏の前に連れていってくださり、天皇陛下とお話をすることができました。

 昭和五十五年に米ヴァージニア州にあるマッカーサー記念館で開催された日本占領シンポジウムでマッカーサー婦人、GHQ民政局のケーディス大佐らとともに参加されたヴァイニング婦人とお会いし、色々とお話を伺った時のエピソードについてお話させていただきました。特に、昭和天皇とマッカーサーが会見されたときの通訳から、昭和天皇は、“You may hang me,”と仰ったという証言をヴァイニング婦人は直接聞いた、というエピソードをお伝えした際に、天皇陛下が深くうなずかれたことが大変心に残っております。“hang”は「絞首刑にする」という意味で、自らの命を犠牲にして日本国民を救ってほしいと嘆願されたことにマッカーサーが大変感動したことは自伝にも明記されています。

 私にとって最も忘れられない思い出は、天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典が平成十一年十一月十二日に皇居前広場で開催された折に、皇居の二重橋前で真っ暗な二重橋の中央にお立ちになった両陛下に対して、万歳三唱の音頭を取る司会役を与えられたことでした。両陛下がお立ちになったことが確認でき次第、直ちに「万歳」の音頭を取る必要があったのですが、暗くてよく見えなかったため、何度も係の人に「まだか、まだか」と詰問したことをよく覚えております。そして、長い沈黙ののちにようやく「お立ちになった」ことが確認でき、「万歳」を二重橋上の両陛下に向かって三唱させていただいた体験は一生忘れられない貴重なものとなりました。

 天皇陛下御即位三十年誠におめでとうございます。

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髙橋 大輔(フィギュアスケーター)

髙橋 大輔(フィギュアスケーター)

 天皇陛下御即位三十年、心よりお慶び申し上げます

 この度、御即位三十年の佳節をお迎えになられましたことを心よりお祝い申し上げます。

 二〇一〇年バンクーバー五輪後に開催された春の園遊会にお招きいただき、当時、怪我から復帰した私に温かいお心遣いを頂戴しお言葉を頂いたこと、そして、その穏やかなお人柄に触れることができ、更に頑張らなくてはいけないと気が引き締まったことを今でも覚えています。

 これからの平和を願うと同時に、いつまでも健やかにお過ごしになられますよう天皇皇后両陛下のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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高橋 礼華(バドミントン選手)

高橋 礼華(バドミントン選手)

 両陛下から賜った言葉を励みに

 この度は、御即位三十年をお迎えになられましたこと、誠におめでとうございます。心からお喜びを申し上げます。

 天皇皇后両陛下は、常に国民の思いに寄り添われ、私たちアスリートに対しても、いつもお心遣いをいただき感謝申し上げます。

 私はリオデジャネイロ五輪後の、二〇一七年春の園遊会に松友選手と一緒にお招きいただきました。その際に、両陛下から直接、決勝戦での最終ゲームを逆転できたことについて「よく立ち直られましたね」とねぎらいのお言葉をかけていただきました。

 まさか、私たちが直接お話をさせていただけるとは思ってもいませんでしたし、また、私たちのことだけでなく、試合内容についてもご存じであったことに、驚きと嬉しさでいっぱいになりました。

 現在、二〇二〇年東京五輪での二連覇に向けて、日々競技に取り組んでおりますが、両陛下から賜ったお言葉は今でも励みとなっております。

 あらためて、天皇皇后両陛下の三十年にわたるご活動に心から感謝を申し上げるとともに、ますますのご健勝と皇室の弥栄をお祈り申し上げます。

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武田 鉄矢(歌手・俳優)

武田 鉄矢(歌手・俳優)

 テレビが来た日

 戦後の昭和に生まれ、団塊とよばれる世代に育ちました。忘れ得ぬ、その出来事は昭和三十四年のことです。私は九州・博多の街はずれに育つ十歳の小僧でした。母は煙草屋と繕い物でミシンを踏み、父は機械油の染み込んだ手の旋盤工でした。子供は五人。そのうち四人が大学から小学校へ通う親掛かりでしたので、暮らしは貧しゅう御座いました。

 余裕のない暮らしゆえに父は不機嫌な人でした。ひと回り年上の兄がおりまして、東京の私大で学んでおりましたが、得意の英語を人前で振り回すと、父は自慢の歴代天皇の名の丸暗記を唱える特技で対抗しまして、まことに大人げない父と兄でした。

 そんな昭和三十四年の春のこと。丸いちゃぶ台を囲んでの夕餉の時。めずらしく盃に手を伸ばさず父が思い詰めた顔で、ポツリ呟いた一言が、「テレビば買うか」。

 その年明けから、世間は皇太子様、美智子様御成婚の、ミッチーブームがここまで打ち寄せておりまして、その祝賀パレードをテレビで視聴するのは大変な贅沢でした。近所十軒に一台もなく、二十軒でやっと一台という、テレビは私たちに遠い家電でした。それを「買う」と宣言した父に、きっと金切り声で母の拒否権発動かと息を詰めていましたが、間を置いて、母ポツリと「テレビば買いましょ」。静かに同意したのです。それは奇跡のようなことでした。子ら一同、あまりのことに呆然とするほどの喜びでした。そしてその春、テレビは我が家へやって来ました。御成婚パレードの数日前、テレビの特別番組の画面で私は動く美智子様を初めて見ました。私はこんなに美しい女の人を見たことがありませんでした。父は感に堪えぬという顔で「鉄矢、見てみろ」と顎で画面をさします。「美智子様は民間から皇后様になられるぞ」。ニュース画面のナレーションが「美しさばかりか、英語も堪能」と伝えると小鼻をこぶしで撫でて、「これからの世は英語のひとつも使えんとな」と唸っています。そして父は今も忘れ得ぬ一言を呟きました。あの不機嫌な父が今、思い返しても初めて呟いた明るい言葉でした。「これから日本は良うなるぞ、きっと良うなる」。こぶしで頬をぬぐっておりましたので泣いていたのでしょう。あの日から我が家は戦後を歩き出したようです。我が家にテレビがやって来たのは、天皇皇后両陛下のおかげと十歳の時の感謝、そのまま心中にあります。

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竹中 俊裕(イラストレーター)

竹中 俊裕(イラストレーター)

 日本人に生まれて本当に良かった

 天皇陛下御即位三十年、誠におめでとうございます。

 私ども国民一人ひとりに、常にお心を寄せ続けてくださり見守ってくださいましたことに心から感謝申し上げます。

 天皇皇后両陛下が先の戦争で犠牲になった方々を慰霊されたり、地震や台風などの災害で被災した方々を見舞い勇気づけてくださっている姿を映像で拝見するたびに「ああ、日本人に生まれてよかった」と何度思ったことでしょうか。

 そのお姿に触れるたびに、私が幼き日に母に教わったことが思い起こされます。

 母は私にこう言いました。「人は悪いことをすると虫や動物に生まれ変わる。良いことをした者だけが人に生まれ変わる。そしてその中で最も良いことをした人はどうなると思う? その人は日本人に生まれるんだよ。」

 小さかった私は、その教えに心が震えました。

 母の教えは、日本人が他の民族より優れているなどといった選民思想ではありません。母は、「日本人には生みの親とは別に、いつも私たちに心を寄せて下さる全ての日本人の父母、天皇皇后両陛下がいてくださる」ということを教えてくれたのです。

 その教えに感動するとともに、日本人として恥ずかしくない人にならなければならないと心が引き締まったことを覚えています。

 一昨年と昨年、ご縁があって皇居勤労奉仕に参加させていただきました。

 奉仕の途中で両陛下のご会釈を賜る機会がありましたが、その瞬間はとても幸せな感動に包まれ、「天皇皇后両陛下に守られている」「天皇皇后両陛下と心で繋がっている」そう実感できて、流れる涙を止めることができませんでした。

 天皇様がいてくださる日本人は幸せです。

 どうかご譲位されたのちは、いつまでもいつまでもお元気で安らかにお過ごしくださいますようお祈りいたします。

 ありがとうございました。

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竹本 忠雄(筑波大学名誉教授)

竹本 忠雄(筑波大学名誉教授)

 平成の大御代

 もしも今上天皇皇后両陛下がおられなかったら、日本はどうなっていたであろうか。

 「失われた二十年」という昭和四十八年からのバブル消長の期間の末期に、明仁親王は即位された。世人は、しかし、それが経済上の失墜よりなお恐ろしい日本の精神的頽廃の極の時期と重なっていたという暗合に、あまり注意しようとしない。時に日本は、一年ずれただけで、昭和四十九年の「靖国神社国家護持法」の廃案に始まり、昭和天皇の事実上の絶望的辞世、《くやしくもあるか》に至るまでの、もう一つの失われた二十年を辿りつつある真っ最中だった。物心両面において逆落としの国運衰亡の時期に当たっていたのである。

 衰亡をもたらしたのは、旧戦勝国側の「反日」勢力と、国内でこれと呼応する「戦後利得者」と、その代表たる民主党政権だった。

 このような時にあたって即位された新帝陛下と皇后美智子様が、どれほど悲壮な決意をもって国民意識の善導に尽瘁せられたか、思い起こすも懼れ多いことである。天皇は憲法上、政治に無関係といえども、歴史に無関係なわけではない。村山首相のもとに衆院が「戦後五十年戦争謝罪決議」の大愚行をあえてしたとき、両陛下は黙々として「戦後五十年慰霊の旅」に踏み出された。たしかに日本人が真っ先に謝罪すべきは、宙に迷う自国の英霊に対する以外の誰に対してであったろうか。さらに列島を出て、硫黄島、サイパン島からペリリュー島にかけての南冥の地での鎮魂巡礼は、他のなんぴとにもなしえない、靖国親拝に劣らぬ真に勇気と叡智ある英雄的御行為にほかならないものであった。

 しかも、両陛下は、硫黄島での栗林中将の辞世に対して五十年の歳月をこえて手向けの歌を返すごとき、世界広しといえども日本にしかありえない君民一如の日本的超越性の範を示された。かたわら、間断なく列島を襲う天変知妖に苦しむ人々を絶えず現地に見舞っては、膝を接して鼓舞激励する新スタイルの君主像をもって国民的感動を喚起せしめられた。時をこえ、災害をこえて縦横にむすびの奇霊を発露された、一系の天子なればこそ可能だった御実績を永遠に私共は忘れないであろう。

 旧臘、御誕生日に発せられたお言葉の、現行憲法内での「象徴」に寄せた切々たる定義に私共は感動せしめられたが、一人々々の国民の胸ふかくに刻まれた天皇像は、心情的には、象徴や記号といった西洋的概念をはるかに越えるものではなかろうか。天皇は生きている、生きていることが天皇だと素朴に私共は信ずるがゆえにである。

 平成の大御代に復活した、これが私共日本国民の誇らかな信仰なのだ。

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田知本 遥(元女子柔道選手)

田知本 遥(元女子柔道選手)

 平成という時代を生きて

 この度は、天皇陛下御即位三十年に奉祝の言葉を綴らせて頂けることを光栄に存じます。

 私事ではありますが、私は平成二年に生まれまして「平成」という時代しか歩んでおりません。まさに天皇陛下が御尽力されましたこの時代「平成」が今の私の全てであります。その「平成」が終わることは私としましても、柔道家の現役を退いた今、一つのステージの終幕のように思い、感慨深く、寂しさも感じております。それと同時に次なるステージの開幕に向けて、より一層努めていかなければならないと身が引き締まる思いでもあります。

 天皇陛下には、二〇一六年リオオリンピック後の園遊会にて、お初にお目にかかりました。国民の象徴である天皇陛下からの労いのお言葉は、私にとって、たいへん貴重な有難い賛辞でありました。常に国民の思いに寄り添ってくださる天皇陛下の御姿勢に感銘致しました。

 また先日、「歌会始の儀」にて、天皇陛下が「はるかのひまわり」への思いを詠まれたというのを伺った際は、同じ御名前に惹かれるものがあり、「はるかさん」のひまわりのように、そして天皇陛下のように、次の道を見据え、しっかりと歩んでいかなければと、改めて強い決意を抱きました。

 三十年間という月日、国民に寄り添われた日々に拝謝し、奉祝の言葉とさせて頂きます。

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田中 英道(東北大学名誉教授・日本国史学会代表理事)

田中 英道(東北大学名誉教授・日本国史学会代表理事)

 両陛下の自然な宗教選択

 今上天皇の御即位三十年をお祝いするにあたって、国民の一人として、ある思いを、ここに書き記すことをお許し願いたい。私はご尊父の昭和天皇の時代の生まれで、大東亜戦争の終戦の御詔勅も直にお聞きした世代である(四才の時だったのでうろ覚えではあるが)。少なくともその御詔勅を聞いていた両親、祖父母の思いは、敗戦の悲しみではなく、終戦の新たな希望の言葉として聞いたようであった。天皇の生きたお声を聞くことが出来たことだけでも、国は続いている、という喜びがあったようだった。少年の私は焼けなかった中目黒の家の周りを駆け回って遊んでいた。

 今上天皇が昭和二十一年、マッカーサー統治下の時代に、弟宮とともに、クエーカー教徒のヴァイニング夫人という家庭教師のもと、英語教育、キリスト教教育を受けられたことは知られている。その時、それがGHQによる日本のキリスト教化の一環と捉えるよりも、天皇家が新しい時代に、西洋的な文化の良い点を学ぶ謙虚な姿勢だ、と思われていたようだ。日本文化が西洋文化に負けたなどとは感じていなかったからである。

 昭和二十五年にヴァイニング夫人は帰米したが、皇太子が、キリスト教徒になられた、ということは誰からも聞かなかった。聖心女子大学卒業の美智子妃と結婚された時も、キリスト教徒の女性とのご結婚と、私たちは取らなかった。皇族の女性を皇太子妃にされると、血が濃くなる、その危険を避けられたのだ、と考えた向きもある。

 私は皇室がキリスト教になることは、絶対に避けなければならないと考える。同時に、皇室はキリスト教になるはずがない、とも考える。キリスト教は一神教である。日本は共同宗教の神道の国であり、潜在的に太陽を中心とした、自然信仰が強い国である。そして御霊信仰、八紘一宇の皇祖霊信仰がそこに融合している。

 その神道に個人宗教の仏教が融合している。キリスト教も個人宗教であるが、その裏には、ユダヤ教(旧約聖書に基づく)の一神教という排他性の強い共同宗教がある。神は、自然の上だという観念を強いる宗教だ。また人間が「罪を負っている存在だ」と教えている。西洋人には当然となっているキリスト教も、日本人は伝統的に受け入れなかった。現在でも信者は人口の一%以下である。

 両陛下は、日本の宗教を守られた。それが決して誰の教示でもなく、皇室の性格からそうなられたことだけでも、大事なことである。

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つのだ☆ひろ(音楽家)

つのだ☆ひろ(音楽家)

 奉祝に寄せて

 今年、皇紀二六七九年、平成三十一年四月三十日、今上陛下が御退位されます。

 日本国民が慣れ親しみ、人生を共に歩み、その慈しみに涙し、愛しつづける陛下の御退位は我々にとって悲喜こもごもではありますが、御意志とあっては国民が口を挟む事柄ではなく、陛下の御意志こそが尊重されるべきであります。天皇陛下は三十年の長きにわたり、我々国民の為に国事行為を担って下さりました。国事行為と一言で言うにはあまりに多種多様な御仕事で数えてもきりがないほどです。陛下の御出席を賜る表向きの信任、任免、認証や国会がらみの仕事、つまり国会の召集、法律や条約の公布、勲章親授、国賓などの御会見,茶会,午餐,晩餐等々、一方それらに必要な御署名御押印もせねばなりません。その休日さえ儘ならぬ公務の間を縫って、ひとたび災害が起きれば被災地に赴き、被災者に寄り添って慰めの御言葉を下さいました。さらには海外に赴き国際交流を深め、時には大東亜戦争の戦跡を訪れては献花と共に慰霊の祈りを捧げて下さったりと若者なら尻込みするような多忙及び多岐にわたる御公務を、在位期間三十年の長きに渉り休む事すら出来ない公的な大事を八十五歳になっても矍鑠として行っていらっしゃったのです。我々国民はその御退位の前に陛下の在位三十年を奉祝することが出来る幸せを噛みしめています。国民の心からあふれる愛情でお祝いしたいと思います

 日本国民の為に費やして頂いたその長き年月を甚大なる謝意をもって讃えたいと考えます。

 僕自身は陛下に直接お会いする栄誉にはまだ浴しておりませんが、不忍通りを車で通過なされる両陛下に手を振ったことを思い出します。僕と妻が手を振っているのに気がつかれた美智子様が窓を大きくお開けになって陛下共々会釈をし、お手振りをして下さいました。本当にもったいなく嬉しい大切な想い出です。

 両陛下の我々に下さった数々の御苦労に対し「ありがとうございます」の十文字ではとても表現しきれないのです。何よりも誰の目もない執務室での事務仕事を黙々とされる陛下、労苦を厭わず膝をついて被災者に寄り添う両陛下の姿には頭が下がるどころか涙を禁じ得ませんでした。

 我々にとって言葉では言い切れない熱い厚い流れ出る感謝の心を是非ともお伝えしたいのです。御在位三十年おめでとうございます。

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堂安 律(プロサッカー選手)

堂安 律(プロサッカー選手)

 平成という時代に生まれ、平成の経験を次の時代へ

 この度は、天皇陛下が御即位三十年を迎えられましたことを、心からお慶び申し上げます。この素晴らしい記念行事にあたり、お祝いをお伝えする機会をいただけましたことを、誠に光栄に存じます。

 私は平成十年六月、兵庫県に生まれ、子供の頃からひたすらボールを追っかけてきました。

 そして、十代の頃から日本代表として日の丸を背負って戦わせていただき、「平成」という時代と共にここまで全速力で駆けてまいりました。

 今年一月にはアジアカップ二〇一九に出場させていただきました。私のサッカー人生において最も大きな舞台で、全国の日本国民の皆様からいただいた多くの声援は、私たちにとってとても大きな力となりました。準優勝という結果とはなりましたが、この経験は間違いなく未来に繋がると信じております。

 まもなく平成から次の時代へと移ろうとしていますが、新しい時代にもサッカーを通じてさらに感動と勇気を与えていけるよう邁進して参ります。

 天皇・皇后両陛下のスポーツへのご理解とご支援に感謝するとともに、両陛下のますますのご健康をお祈りしての御即位三十年のお祝いの言葉とさせていただきます。

所 功(京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授)

所 功(京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授)

 天皇陛下ご在位三十年記念式典の「おことば」

 この二月二十四日午後、皇居近くの国立劇場で政府主催の「天皇陛下ご在位三十年記念式典」が開かれた。その席で陛下が感慨を込めて読まれた「おことば」には、極めて重要なことがいくつも指摘されている。

 その一つは、中ほどの「私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくりあげてきた、この国の持つ民度のお陰でした」という「この国々の人々」と「この国の持つ民度」に対する高い御評価と深い御信頼である。

 もう一つは、終りの方で、平成二年(一九九〇)十一月の大礼直後に皇后陛下が詠まれた御歌「ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ」を引き、次のごとく述べられたことに心打たれた。

 「この頃(平成の初め)、全国各地より寄せられた『私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています」

 これは昭和二十一年元日公表の「新日本建設に関する詔書」の中で「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とによりて結ばれ」と仰せられている、君民一体の精神的伝統を、あらためて明示されたことになろう。

 しかし、現今の日本国民は、このような御信頼に応えられるほどの「平和な日本をつくっていく」決意をもって実践に努めているだろうか。そこで、ささやかな試みにすぎないが、今上陛下と皇后陛下の御心を日々学びながら「平成」(平和の達成)を目指す手懸りになればと思い『「平成」宮中歌会始 御製・御歌 カレンダー(日めくり)』(モラロジー研究所刊、実費一〇〇〇円)を、有志と協力して作成した。広く活用して頂けたらありがたい。

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富山 清琴(公益社団法人日本三曲協会会長)

富山 清琴(公益社団法人日本三曲協会会長)

 両陛下と絹糸の思い出

 天皇陛下御即位三十年、謹んでお慶びを申し上げます。

 天皇皇后両陛下におかれましては、常に私ども国民に遍く思いをお寄せ下さりました。深い敬愛の念を新たにしますと共に、心より厚く御礼申し上げます。

 公益社団法人日本三曲協会、また、その前身であります社団法人日本三曲協会には、これまで、紫綬褒章受章、重要無形文化財保持者認定、日本芸術院賞受賞、文化功労者選定あるいは叙勲などに際し、拝謁の栄に浴した会員が多くおります。私もその一人でございますが、幾度か拝謁を賜りました中で、紫綬褒章受章のおり、絹糸のお話しをさせて頂いたことがございます。

 私どもが使う楽器のうち、筝、三弦、胡弓では弦に絹糸を多く使用致しますが、皇后陛下から拝領致しました原糸を用いた絹糸を使用させて頂いたことがあり、艶のある音で、かつ、非常に丈夫であったことを天皇陛下に申し上げましたところ、大変御興味を持たれ、また、日本の伝統芸能に深いご理解をお示し頂きました。これは、私にとりまして、生涯の思い出でございます。

 本年、天皇陛下にあらせられましては御譲位なさり上皇に、皇后陛下にあらせられましては上皇后におなりあそばしますが、末永く御健勝であられますよう心より祈念申し上げ、奉祝の言葉とさせて頂きたく存じます。

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長嶋 茂雄(元プロ野球選手・プロ野球監督)

長嶋 茂雄(元プロ野球選手・プロ野球監督)

 天皇、皇后両陛下が「常に人々の傍らに立ち、寄り添ってこられた」思いを実感した

 「お体の方は如何ですか」平成二十五年十月三十一日赤坂御所の園遊会に招かれた際、やさしく話しかけられた天皇陛下のお言葉が今でもはっきり残っている。

 とっさにお応えしたのは「はい、六十パーセントは治って参りました。有難うございます」。なぜ、陛下が私の体調にまで気遣われたのか、とひたすら感激したことを思い出す。

 私が脳梗塞で倒れたのは平成十六年三月四日、アテネ・オリンピックを五か月後に控え、日本代表チームの監督として、チーム作りに夢中で取り組んでいたところだった。病床にあって、動けなかったのは三日足らず、四日目には何とか立ち上がってベッドの周りを歩き始めた。「何としてもアテネ・オリンピックには出なければならない」という必死の思いしかなかった。

 結局、アテネ・オリンピックには日本代表チーム監督と言う形だけで、日本に残り、アテネの試合はテレビで見守ることになった。

 以後、私は「絶対に自分の体を元に戻したい」と言う気持ちになってリハビリに向き合ってきた。現役の選手時代、練習に励んでいたときと同じような気持ちも甦ってきて、リハビリでは「練習はうそをつかない」「一日休めば取り返すのに三日かかる」などと自分自身を叱咤激励する言葉を使ってがむしゃらだった。こうしたリハビリでの言動の様子が外にも流れて、新聞やテレビでも話題になったらしい。

 園遊会でお目に掛かった陛下からいきなり体調のお言葉が出たのは、私が取り組んできたリハビリの様子を何かでお聞きになったのかもしれない。体調を気遣われた天皇陛下に続いて皇后陛下からも「大変でしょう。元気になりましたか」と優しい、いたわりの声も掛けて頂いた。

 平成の三十一年間、天皇と皇后は「人々の傍らに立ち、思いに寄り添うこと」を常に大切にされた来られた、と聞く。そのお言葉通り、私の体調までお心遣いを頂いた。園遊会でのお言葉に、両陛下の御心の一端を実感したのだった。

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中山 理(麗澤大学学長)

中山 理(麗澤大学学長)

 四十五年ぶりの感動

 私が最初に天皇皇后両陛下とお目にかかる栄誉を賜ったのは、平成の御代ではなく、今から四十五年も前の昭和四十九年にまでさかのぼる。当時、大学生だった私は、麗澤大学皇居勤労奉仕団として皇居内の清掃奉仕に参加したのだが、その動機は、半ば、好奇心に駆られたものだった。ところが、半ば興味本位だった気持ちが、感動と崇敬の念と感謝の気持ちに変わる時熟的瞬間を体験することになった。一月九日、昭和天皇から、「社会・国家のために働いてください」というお言葉を直接に賜っただけでなく、翌日には、当時、皇太子・皇太子妃であられた両陛下から偶然にも温かいお言葉をかけていただいたのである。

 その日の夜、侍従次長の木下道雄氏から、天皇は、人民や国土を私物化する「うしはく国」の支配者ではなく、他者をわが想いの内に受容して一体化する「しらす国」の天皇であるとのご教示をいただいた。私が体験させていただいた一コマ一コマの出会いの背後には、国家の発展と国民の安寧を願う歴代天皇の大御心が時間を超えて連綿と受け継がれていることを改めて学んだわけである。この両陛下の大御心は、日本のみならず、万人を感動させるものである。思い出すのは、昭和六十二年、両陛下が皇太子、皇太子妃としてアメリカ合衆国ワシントンの老人ホーム・ホスピスを慰問されたときである。ご滞在中行動を共にしたセルワ・ルーズベルト儀典長は、その回想録『門の番人』の中で、両陛下の「作法はチャーミングで穏やかであり、お喜びの気持ちと驚くほどのお心遣い」が伝わってきたと述べ、その優しさに、任務を続けられないほど心を打たれ、勤務中に涙を流したのは、後にも先にもこの時だけであったと述懐している。

 そして御代替わりの近づいた昨年、ふたたび皇居で奉仕をする機会をいただいた。この度も、早朝の皇居で、陛下ご自身が運転されていたお車が、私たちのそばを通り、両陛下からご挨拶をいただくという偶然の幸運に恵まれた。その両陛下の笑顔は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。その後、御所でのご会釈では、陛下からは、奉仕へのお礼と「皆様の健康をお祈りしております。お体に気をつけて」というねぎらいのお言葉を、皇后陛下からは「この前、車で通った時お会いしましたよね」という心温まるお言葉をかけていただき、四十五年ぶりに感動を新たにしたわけである。両陛下に対し心から感謝を申し上げるとともに、ご皇室の弥栄を衷心より祈念申し上げます。

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成田 緑夢(プロアスリート)

成田 緑夢(プロアスリート)

 天皇陛下御即位三十年祝辞

 御即位三十年をお迎えになられた天皇陛下に心よりお祝い申し上げます。

 私は、幼い頃からからオリンピックを目指して頑張っておりましたが、十九歳の時に左足に障害をおってしまいました。もう、五輪は出場できないと思いましたが、パラリンピックに出場することにより、人に勇気を与えることが出来るのではないか、活動を見て勇気を貰えましたという沢山の声を聞いて頑張ろうと思いました。

 そのお陰で、昨年十一月九日の園遊会に招待されるという名誉を賜り、天皇陛下に直接お目にかかる事が出来ました。当日、雨が降りしきる中、自分の方に近づいて来られる陛下を見ながら緊張しておりました。天皇陛下から「本当におめでとう」と労いの御言葉をかけて頂き「今度は走り高跳びで東京パラリンピックを目指して頑張ってます」と会話ができました。

 この時、障害に負けず頑張ってきた甲斐があった、諦めなくて良かったと金メダルを取った時と同じ喜びを感じました。

 現在私は、二〇二〇年東京パラリンピックに向けて、走り高跳びの練習をしております。目の前の一歩に全力を傾け、母国での開催でもありますので、新たなる競技を多くの人に見て頂けるように頑張ります。

 天皇皇后両陛下もスポーツがお好きと聞いております。今後ともスポーツに励む子供達から日本代表選手に至るまで、励まして頂ければ幸いです。

 天皇陛下の三十年の間、常に国民を温かく見守り、心配して御言葉をかけ続けて下さった事に心から感謝を申し上げると共に、天皇陛下の益々のご健勝と皇室の弥栄を御祈り申し上げます。

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野村 萬(能楽師(狂言和泉流)・公益社団法人 日本芸能実演家団体協議会会長)

野村 萬(能楽師(狂言和泉流)・公益社団法人 日本芸能実演家団体協議会会長)

 天皇陛下御即位三十年奉祝に寄せて

 昭和二十一年三月、天皇陛下が学習院初等科を御卒業なさるに当たり、鈴木弘一先生が拙宅へお見えになっての御依頼を受け、正堂における茶話会において、父を始めとし、狂言「靭猿」を御披露させて戴きましたことが、御皇室との、畏れ多い繋がりの基であると存じております。

 その後も、制服のお姿で、安倍能成院長と共に染井の能舞台にお見えになるなど、なつかしく思い出されます。

 昭和天皇御在位五十年に当たる昭和五十一年、また六十年の昭和六十一年、それぞれ節目の祝賀の年にも、東宮御所において天覧を戴く機会を賜りました。

 また後年、平成二十四年九月、皇太子殿下、秋篠宮殿下ならびに清子様御企画による「皇后陛下喜寿祝賀狂言の会」が開催された折にも、皆様の選曲により、「蝸牛」を御覧戴いたこともございました。

 長きに亘、様々な機会を有難く頂戴をし、御縁を戴きました事に、心より深く感謝を申し上げたく存じます。

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長谷部 誠(プロサッカー選手)

長谷部 誠(プロサッカー選手)

 包み込むような温かさ

 天皇陛下、この度は御即位三十年を迎えられましたこと、心からお祝い申し上げます。

 陛下とは二〇一〇年南アフリカW杯が終わった後に皇居でお会いする機会をいただきました。

 W杯の試合を全てご覧になって応援していただいていたとお聞きした時は驚きと共に大きな喜びを感じました。

 お話をさせていただいた時の、陛下の相手を包み込むような温かさは今でも鮮明に覚えております。

 陛下の益々のご健康を祈念しつつ、改めて御即位三十年を慶賀申し上げます。

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羽生 結弦(フィギュアスケート選手)

羽生 結弦(フィギュアスケート選手)

 天皇皇后両陛下の御心に触れ

 天皇皇后両陛下が御即位三十年をお迎えになられましたこと、心よりお祝い申し上げます。

 平成の時代が始まり間もない頃に生まれました私は、現在二十四歳となり、これまで両陛下の御目に掛かる機会が二度ございました。

 平成二十六年、ソチオリンピック後の春の園遊会にお招きいただいた際には、東日本大震災についてもお話くださいました。私自身、被災された方々への想いを込めて滑ることもあり、少しでも復興に向けて前へと進むための心の拠り所となることが出来ればと考えていたこともあり、そのような思いを持ってスケートをしていくということを肯定していただいたように感じました。それ以来、現在においても、ずっと背中を押していただいているような、そんな気持ちがいたしております。

 そして、昨年平成三十年、平昌オリンピック後の春の園遊会では、私の足の怪我について大変心配してくださいました。両陛下の温かい御心に触れ、大変感激いたしました。

 両陛下の御心は東日本大震災の際にも感じておりました。多くの被災地へ直接足をお運びになり、誰にでも分け隔てなく同じ目線でお声をかけていらっしゃる姿に、私も被災地の人間の一人として、非常に励まされ勇気付けられたことを覚えております。私自身、これからも故郷である仙台、被災地に寄り添って歩んでいきたいと改めて決意するきっかけを与えてくださいました。

 平成という時代に生まれ、共に歳を重ねてまいりました。これまで経験したこと、感じたこと、いただいた言葉、そのすべてを未来へと繋げてまいります。

 天皇皇后両陛下の御多幸を祈念いたしますとともに、改めまして、御即位三十年をお祝い申し上げます。

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羽生 善治(将棋棋士)

羽生 善治(将棋棋士)

 「平成の三十年」

 御即位三十年をお迎えになられた天皇皇后両陛下に慎んでお祝いを申し上げます。平成の三十年もの間、国民の幸福と安寧を絶え間なく祈るお姿に深い敬意と感銘をいつも受けています。将棋の棋士は対局やイベント等で様々な場所に行く機会があるのですが今まで数多くの天皇陛下の足跡に触れる機会に恵まれました。慰問された場所、宿泊をされた場所、植樹をされた場所、全国津々浦々まで足を運ばれている現実とその大きな存在を幾多の場所で感じて来ました。

 また、その機会を写真やパネル、説明文も展示されている場所もたくさんあり、地元の皆様にとってかけがえのない、変わる事のない宝物のような時間であったのがいつも伝わってきました。

 そして、稀有な機会に際して万全の準備と実行力を発揮されているそれぞれの場所のスタッフの皆様の話を聞くときに、あたたかいおもてなしの心は一朝一夕で生まれるのではなく、長い歴史と伝統の中から育まれ、洗練され、継承をされているのだと痛感をしました。

 幸いにも平成七年と平成三十年の二回も園遊会で陛下にお目にかかる機会を頂きました。最初の時は緊張で残念ながらあまり記憶に残っていませんが穏やかで温かい眼差しは深く記憶に残りました。

 平成の三十年は自然災害もとても多かった時期だったと思います。そのような不条理な事象によって深く傷ついた多くの人々に今後も変わる事無く、その眼差しが注がれている事に平成の時代を生きる事が出来た幸運を感じています。

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福留 民夫(文京学院大学名誉教授)

福留 民夫(文京学院大学名誉教授)

 御即位三十年に感謝を捧げて

一,バブル崩壊と長いデフレ、未曾有の自然災害の頻発等の中で、日本国の象徴、日本国民統合の象徴として、国民と苦楽を共に歩まれた、天皇陛下御即位三十年を奉祝し、感謝を捧げます。

 国民と 苦楽を共に 歩まれし
  御即位三十年 感謝を捧ぐ



二,昭和初め生まれの一人として、“億兆心を一にして歩む、万世一系、皇統連綿の日本の国体”を奉祝致します。

 昭和の代 平成の代を 生かされて
  国体の精華 祝い奉る


三,昭和天皇大喪の礼儀式に参列し、拝受致しました「昭和天皇の御製」で昭和天皇の御聖徳をお偲び致しましたが、今回は、「天皇陛下御即位三十年の御製」で平成の天皇の御聖徳をお偲び致します。

(付記)昭和天皇の御製

 西ひがし むつみかはして 栄ゆかむ
  世をこそ祈れ としのはじめに
 よろこびも かなしみも民と 共にして
  年はすぎゆき いまはななそぢ
 わが国の たちなほり来し 年どしに
  あけぼのすぎの 木はのびにけり

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藤井 フミヤ(音楽家)

藤井 フミヤ(音楽家)

 日本人の精神性を大切に

 天皇陛下におかれましては、御在位三十年を迎えられましたこと、謹んでお祝い申し上げます。

 また、長きにわたり、多くのご公務とともに日本の安寧と国民の幸せに御心を寄せてくださり、心より感謝申し上げます。

 お陰様で平成という激動の時代が平和のうちに護られてきましたが、世界情勢を見ていると、それがいかに奇跡のようなものかと気付かされます。

 日本人は、自然への感謝や畏敬の念、大いなるものに守られているような感覚を、もともと心の奥底に持っているのでしょう。多くの人が、宗教とは関係なくとも初詣やお祭りで神社に参拝し、幸せや平和を祈って手を合わせます。皇室のもと一つの国が長く続いてきたという背景も含め、国民が古来持っている感覚なのだと思います。これからの時代こそ、こうした精神性や、感謝や敬意といった日本人ならではの善いハートを大切にするべきだと感じております。

 私ごとではございますが、一九九九年から日本武道館で年越しのカウントダウン公演を行ってまいりました。このコンサートでは、年が明けると同時に「君が代」を歌うのが恒例です。皇居や国会議事堂も間近な日本の中心ともいえるエリアで、新たな夜明けを迎える瞬間は、日本人として感慨深いものがあります。

 また、第六十二回神宮式年遷宮キャンペーンソング「鎮守の里」を担当し、神宮内宮で歌を奉納させていただいたことは、三十五年間の歌手人生の中でも光栄なことでした。普段のポピュラー音楽とは異なり、古来の日本語を使って日本の原風景を描写し、美しい国が未来永劫続くよう祈りを込めて書きました。当時行われたオーケストラによる奉賛演奏会でも、この曲が演奏されました。天皇皇后両陛下がお出ましになり、天皇陛下より、これは誰の曲ですかといったお言葉を賜ったと伝え聞きました。自分はあいにく当日その場にいられず残念でしたが、お聴きいただけたことを光栄に思っております。

 天皇皇后両陛下のご尽力により築かれてきた平和が、新たな元号の時代にも続いてゆくよう、国民ひとりひとりが意識して時代を創る時です。私自身も日本そして世界平和への想いを込め、歌で貢献してまいりたいと思います。

 天皇皇后両陛下の益々のご健勝と皇室の弥栄をお祈り申し上げ、御在位三十年へのお祝いと感謝の言葉とさせていただきます。

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藤岡 弘、(俳優・武道家)

 天皇陛下御即位三十年をお迎えになられ、国民として真に喜ばしく、心よりお慶び申し上げます。厳しい諸情勢の中で、常に国民に寄り添い、皇后陛下と共に御心を掛けるお姿を拝見させて頂く度に、日本国に生まれて良かったと思わずにはいられません。縁あって、世界中を旅させて戴く機会を持たせて戴いた中、小生、悲惨な世界の実情を体験し、あらためてこの国の国民であることに、幸せを感じる次第であります。

 この様な幸せな国民は、世界中どこにもいないと思っております。愛ある思いやりを持って、細微に渡り心配りされるお姿は、真に神々しく、日本国民としての誇りを感じ、我が身を振り返り、心正さずにはいられません。

 思いやり、いたわり、慈しみ奉仕され、感謝の体現をされるお姿こそ、日本人の象徴としての世界の人々の眼に写る影響は、計り知れないことと思います。

 いつも世界が平和である事を念じておられる御言葉、犠牲になられた多くの御霊に心尽くされるお姿全てが、日本人の精神的支柱であられます。

 数年前、私は、世界でたくましく生きぬく日本人について、海を越えた侍というドキュメンタリー番組を企画制作、出演した際に、サンパウロで日本人会の長老の方とお会いしました。その際、天皇陛下のお写真が談話室に掲げられておりました。期限が過ぎた日本のパスポートを大切に保管しながら、両陛下が示してくださる日本人としての精神性をもって、異国の地で開拓し、長年生き抜いてこられたということを、涙ながらに語られていらっしゃいました。世界を旅する機会の多い私は、各地で、このような出会いも多く、日本国民の一人として誇りを持って歩むことが出来、心より感謝申し上げる次第であります。

 共に両陛下のますますのご健勝と御皇室の御繁栄を心よりお祈り申し上げます。

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藤島 博文(日本画家)

藤島 博文(日本画家)

 世界に類例のない全人類のレガシー

 世界にあって、はるか東洋のこの国の歴史は古く古代神話の時代から今に連る皇室は世界に類例のない全人類のレガシーである。

 此度、今上陛下におかせられては御即位三十年の佳節をお迎えになられ誠に慶賀の至りである。我々は三十年前、あまりにも偉大であられた昭和天皇が崩御なされたとき、大きな悲しみとともに未来に不安感を覚えたがそんな中、今上陛下は美しい皇后さまとともに常に穏やかにつくろわず、そして「人として気高く生きゆく人間本然のお姿」を全国民にお示し下さった。

 思うに天皇家はその時代その時代によってとてつもなき大きな働きをなされる。

 例えば、明治天皇は国家の形体を新しくし大正天皇はデモクラシーにおける希望ロマンの灯を新しくし、昭和天皇は戦後日本の荒廃を不死鳥の如く新しくし今上天皇は他を思いやる恕の心を人間としての気品ある生き方の新鮮さをお教え下さった。このような両陛下に私は十年前お会いいただくことができた。

 それは御即位二十年にあたり奉祝画「平成鳳凰天来之図」を謹筆させていただいたときである。その図は、紅白の鳳が天空に舞い、その背景には日月と金の星宿二十個に加え、御成婚五十年をお祝い申し上げて銀の星宿五十個、そして御皇室の万代弥栄の願いを込めて「極座動かず集星悉く集むる」の古事に因み画面中天高く北極星を描き入れさせていただいた大作である。

 式典当日、国立劇場に御到着なされた両陛下は玄関正面入口にて本図を御高覧賜り、翌日豊明殿のお茶会にお招きいただき「紅白の鳳凰がとても美しく描かれていましたね」等とおことばを賜った。また豊明殿前方には大きな悠紀・主基図の屏風が飾られており、私はその主基図の制作に長男と携らせていただいたことも申し上げた。丁度あの頃は各地の神社が焼打ちされることもあり二十四時間警察の方々に守られての日々であったが今は平穏な日々となり、きっと陛下もおよろこびのことであらせられよう。

 あれから十年が過ぎてここに御譲位なされいよいよ新しき御代がはじまる。そこで新しく天皇となられる皇太子様のことであるが、御幼少のころ富士宮市にある源頼朝公の下馬桜が咲く井出家に行啓なされたとき、席上のお床の掛け軸をご覧になられ「これは慶喜公ですね」とおっしゃられたという。そこには号を用いられていたが、それも判読されたと御当主が驚いておられた。我々はこのようにとても御聡明な天皇をいただくこととなり、また新しくこの国の歴史が始まることを心から喜び合いたい。

 そしてこれからの世界にあって日本国は尊い国、大切な国と慕って下さるよう上皇様・皇太后様そして新天皇皇后様と共に同じ天をいただきつつ日々働きゆけることに感謝を捧げつつ御即位三十年の慶祝文とさせていただく。

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藤原 正彦(お茶の水女子大学名誉教授)

藤原 正彦(お茶の水女子大学名誉教授)

 確固不動の核を持った国に生まれたことの幸せ

 奉祝委員会の委員として微力ながら尽くしたいと思っています。今日は歴史の話をしたいと思います。

 一七世紀の後半、ニュートンや数学者のライプニッツなどと同じ頃、ケンペルという人がドイツで生まれました。彼は世界中歩き回って最後に日本に来るんです。

 一六九〇年に長崎の出島に来てオランダ商館の医師として二年間ほど日本にいました。その時に江戸に二度ほどきて五代将軍の綱吉に謁見したりしています。彼には今村という天才的な通訳が付いていて、日本の文献を翻訳してもらったり、一緒に日本中を歩き回ったりして、日本について非常に詳しくなりました。

 そこで、彼はオランダに帰ってから『日本誌』という本を書きました。この本のおもしろいところは、日本の特徴について次のように指摘しているところです。〈日本には皇帝が二人いる。宗教上の皇帝と政治上の皇帝で、一方が天皇陛下で、一方が将軍である。権威と権力を完全に分離している。これは素晴らしいアイディアだ。世界はそうなっていない〉と。

 例えばその頃は、三十年戦争がドイツ(当時、神聖ローマ帝国)でありました。宗教戦争で物凄い殺し合いをしました。あるいは、ローマ法王と各国の王様が争ってきたのがヨーロッパの歴史でもありました。「日本はそこが完璧に分かれている、なんと素晴らしいんだ」とケンペルが言っています。日本の皇室は紀元前六六〇年から始まって、万世一系、男系でつないできたと。

 この本は、一七二七年、彼が死んだあとに発行されたのですが、これがベストセラーになるんですね。文豪のゲーテ、哲学者のカント、あるいはフランスのボルテールやモンテスキューなど啓蒙学者等もみんな読んでいる。江戸時代後期に日本に来たシーボルトも、幕末に黒船に乗って日本を脅しに来たペリーもよく読んでいる。当時、日本に来た人の日本に関する知識はほとんどこのケンペルの本の知識といって過言ではありません。

 幕末から明治にかけて長いこと日本にいたアーネスト・サトウというイギリス公使館の外交官は『一外交官の明治維新』という本を書きました。その中で、サトウは〈宗教上の、あるいは精神上の皇帝と、それから権力上、政治上の皇帝が二人いるというケンペルの見方は確かに正しい。しかし日本人と日本国にとって、天皇という存在は単なる精神上、宗教上の皇帝ではない。確固不動の核である〉と言っているんです。「確固不動の核である」というところが重要です。

 日本で内乱が起きると、天皇陛下をつけた方が必ず勝つ。とにかく核を握った方が勝つ。これほどの確固たる基盤の上に立った君主というのは歴史上、世界中どこを見回してもいない。そういう点で日本は非常に特殊な国だ。こういうことを書いているわけです。

 要するに世界中こんな国はないと。

 これまで日本は厳しい危ない目に何度も遭ってきている。しかし、最後の土壇場では必ず、この確固不動の核というものが物を言って日本は生きながらえてきたということですね。これからも日本には色々厳しいことがあるでしょう。しかし、いざとなった場合は、この確固不動の核、これをがっちりと守っていくことによって日本はまた今後も長いこと生きながらえることができるのではないか。このような世界のどこにもない、確固不動の核を持った国に生まれたことを、とても幸せだと私は最近思っております。簡単ですが、お祝いの言葉に代えさせていただきます。

(平成30年11月27日 天皇陛下御即位三十年奉祝委員会設立総会 祝辞 より転載)

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松井 嘉和(大阪国際大学名誉教授)

松井 嘉和(大阪国際大学名誉教授)

 お言葉はポーランドの森にも

 西暦一九九九年(平成十一年)九月、ポーランドの首都ワルシャワから北へ二百キロ程の森の中の教会で、ゼノ修道士生誕百年記念祭が県庁と教区庁との共催で、私共日本人も招かれ、盛大に開催されました。境内には「ゼノの無限の愛」と日本語も刻まれた台座に日本人の男の子とポーランドの女の子に慈愛の眼差しを注ぐゼノ修道士が立つ像が見上げる高さに作られ、その開幕式も行われて、村は祭りで賑いました。

 両陛下が同国を御訪問くださったのは、その三年後、平成十四年七月のことでした。その三箇月後、司祭は、境内の小屋を、子供達が同修道士の日本での奉仕活動や日本の文化そして地元住民の今と昔の生活を学ぶための場に改造し、「ゼノ記念館」と名付けました。その中に「日本の間」を設け、日本語とポーランド語に訳された大統領夫妻主催の晩餐会での陛下のお言葉全文を、両陛下のお写真とともに掲げて、私共が集めて届けた着物や人形等々数々の日本の品を展示しています。

 ポーランド人が古来日本を讃えて「桜咲く国」と呼んでいる国が困窮の時、その遠い東亜の国の人々を助けた地元出身の修道士の顕彰を通じて児童教育を進めている司祭は、陛下がお言葉の中で「貴国と我が国の交流の歴史の中で,一九三一年から数年に渉って,我が国の長崎で人々のために力を尽くされたコルベ神父を忘れることはできません。その生涯は,コルベ神父に従って我が国を訪れ,その後五十年以上に渉って,終生を我が国の戦災孤児の救済などに捧げたゼノ修道士の一生とともに,今も,折に触れ,日本の人々に思い起こされております。」とゼノ修道士に言及なされたことを知り、日頃の自身の教化活動が日本に認められたと確信を得て、無上の喜びで励まされていたのでした。そして、それを機に、寺子屋と譬えたくなるような小屋を境内に設け、そこに両陛下のお姿と陛下のお言葉を掲げているのです。

 陛下の外国御訪問の折のお言葉は、御訪問国とわが国との交流にとって根源的な事柄、時代の情勢にも文化の相違にも揺るぎない繋りの根幹が懇切に触れられてあり、交流史を学ぶときの必読の記述であることに気付かされます、だからこそ各地の社会の隅々までも影響が及んでいるのだと実感し、両陛下へのささやかな感謝の言葉として、その一例を紹介いたしました。

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松浦 光修(皇學館大学教授)

松浦 光修(皇學館大学教授)

 みたみわれ ─ 御即位三十年を奉祝する

 平成三十年十二月の陛下の記者会見を拝見し、思わず“もらい泣き”をしたという国民は、少なくあるまい。かくいう私も、その一人である。かつて私は、昭和天皇のお姿やお言葉を拝していたころも、胸に“熱い何か”がこみ上げることが多かった。そのことについて私は、父が先の大戦のさい、大陸で軍属をしていたことから、“それは、たぶん父を通じて伝えられた先の大戦の記憶に由来するものであろう”と思っていた。

 しかし近ごろになって、そうとばかりはいえないのではないか…と気づいた。もしも、「先の大戦の記憶」にのみ由来するものなら、今上陛下のお姿やお言葉に“熱い何か”がこみあげることなど、たぶんないはずだからである。現実には、この三十年、私はしばしば、今上陛下や皇后陛下のお姿やお言葉に、“熱い何か”がこみあげてきた。ある時、講演で両陛下の御聖徳を語るうち、涙で声がつまってしまったこともある。そして私は、先に記したとおり昨年末、またもや“もらい泣き”をしてしまった。三十年の歳月を振り返れば、私の胸のうちには、今上陛下のお姿やお声に対して、昭和天皇のころと何も変わらない“熱い何か”が常にあった、ということになる。

 それはどこに由来するのか…と考えた時、私には、『万葉集』の一首が脳裏に浮かぶ。「みたみわれ\生ける験あり\天地の\栄ゆる時に\あへらく思へば」(海犬養宿 岡麻呂)。歌意はこうである。「天皇の国の民の一人として、ほんとうに私は、生きていてよかったと思います。なぜなら私は、あの詔(注・聖武天皇の詔)にあらわれているような、善政の恵みに、天地の神々とともに浴することができるのですから…」。

 いつの世も、人が生きるということは、喜びや悲しみなどと共にある。そして、皇室は有史以来、それらのすべてを国民と共にしてくださった。それが、どれほどありがたいことか…。今年の一般参賀には、十五万五千人の人々が集ったが、その現象は、たかだか百年…二百年の歴史から生じたものではあるまい。御歴代の天皇方と、私たちの先祖たちは、いく千年もの間、喜びや悲しみなどを共にしてきたのである。私たちの胸にこみあげる“熱い何か”とは、つまりはそのような“永遠なるもの”に由来するのであろう。

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松友 美佐紀(バドミントン選手)

松友 美佐紀(バドミントン選手)

 想像を上回る強さと安心 陛下のお人柄にふれて

 この度は、天皇陛下におかれましては、御即位三十年をお迎えになり、謹んでお祝い申し上げます。

 天皇皇后両陛下におかれましては、常に国民と共にあること、国民に寄り添ったお考えをお持ちであることを感じさせていただき、また、その想いから様々な場所へ出向き、国民と日本の文化に触れる機会も多くあったことと存じます。その中で、スポーツ競技にも、ご関心を向けていただいていたと感じておりました。

 私は、バドミントン競技に身を投じ、二十年程が経ちます。二〇一六年にはリオデジャネイロオリンピックに出場し、ついに大きな目標だった金メダルを獲得することが出来ました。その時には、自分の達成感はもちろんのことでしたが、自分のまわりの人のみならず、日本の皆さまが共に喜んで下さっていたことに、驚き、また嬉しかったことを記憶しています。同時に、天皇皇后両陛下にも、オリンピック後、大変貴重な機会となる園遊会にお招きいただき、とても光栄に思いました。最初、遠目にお二人がお見えになった際に、力強さとオーラがとにかく大きくて、自分自身がパワーをもらったという印象が強いです。天皇陛下から「どうでした?」とお話しいただいたことに対し、髙橋先輩から16対19からの逆転の話を返答したのち、皇后陛下からは「よく立ち直りましたね。きつかったでしょう」とお声をかけていただきました。私は、「ただ出し切るだけでした」と伝えました。初めて直接お二人にお会いし、試合を観てくださっていたことを知り、また、今まで想像していたよりもさらに上回る、強さと安心を感じさせる空気をお持ちであるというお人柄を感じ、緊張もほぐれ、穏やかに会話させていただいたことを覚えています。その節は、お招きいただき、お話しする機会をいただきありがとうございました。

 今後、形式としては変化を遂げても、両陛下は変わらず、国民の平和と安寧を祈り、想い続けて行かれることと思います。私は、国境を越えた平和の架け橋ともなる共通言語「スポーツ」の中の「バドミントン」を通じて、チャレンジし続け、オリンピックでの二連覇を達成し、日本の皆さまと共に喜ぶことが出来る結果を残したいと思います。両陛下におかれましても、温かくお見守り下さい。

 御即位以降三十年に渡る、両陛下のご活動に感謝申し上げると共に、ますますの御健勝と、皇室が末永く繁栄されることを心からお祈り申し上げます。

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松本 徹(前三島由紀夫文学館館長)

松本 徹(前三島由紀夫文学館館長)

 平穏無事に未踏の道を ── 御在位三十年を寿いで

 わたしは昭和八年生まれであります。それだけに昭和、平成の年月が次々と繰り広げてきた情景を、大まかにはご一緒に見て参ったとの思いがあります。そして、拙い仕事として、三島由紀夫、光厳天皇、菅原道真の足跡を追うようなことをしてまいりましたので、それなりに感じることもありました。

 例えば、光厳天皇が皇太子となられるのに臨んで、叔父で帝王学を担当なさった花園院が、御自らの体験・識見を踏まえて「誡太子書」をお書きになり、「登極ノ日、此ノ衰乱ノ時運ニ当タランカ」とその心得を厳しく求められました。戦後の当時は、まさしくその通りの状況だったのではないかと愚考いたします。

 それだけにいま、来し方を振り返って、よくもこれだけ多難な道のりを、大過なく踏破して来られたものだとの思いを強く抱きます。殊に世界に類例のない長大な伝統に対する責任を背負い、ある意味では前人未踏の道を歩まれて来たのです。時には押し潰される思いをなさったことも度々であったでありましょう。それにもかかわらず、真正面から、真正直に、穏やかな表情を崩すことなく、乗り越えて来られた。先だってご自身が、「長い旅」をして来たとの感慨をお漏らしになったのも、もっともと存じます。

 そこには、美智子さまを伴侶となされ、歩みを共にされた幸せも多いに与かっていましょう。その幸せは、われわれにとっての幸せでもありました。難路をゆく足取りも雅びさとしなやかさを獲得されたように思ったものです。

 そうして、他ならぬ昭和天皇のお子として、見事と申し上げるよりほかない大仕事を成し遂げられたと、振り返ることのできる日も間近かになりました。お喜び申し上げます。それとともに、この列島の片隅に生きて来た一員として、感謝申し上げます。

 もっとも私人とは異なり、これから新しい時代の上皇としての歩みが始まる、と考えになっておられるかもしれませんね。これまで上皇となられた方々の歩みは、まことに多彩、豊富です。そのなかにあって、これまた前人未踏の道をゆかねばならないのでありましょう。ただし、それは健やか、穏やかに老いる道でありますよう、祈念いたします。

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黛 りんたろう(演出家)

黛 りんたろう(演出家)

 天皇陛下御即位三十年を奉祝申し上げます

 天皇陛下におかせられましては、御即位三十年、誠におめでとうございます。

 新憲法のもと、象徴天皇として、国民とともに在ることを体現されて来られた陛下は、和を尊び、こまやかなる思い遣りに満ちた大和民族の心の拠り所であります。

 文字どおり、無私の精神を貫かれ、国民の痛みに心を寄せられ、さきの大戦の激戦地跡や災害の地へ幾度となく足を運ばれるお姿に、どれほどの国民が胸を打たれたことでしょう。

 私事で恐縮ですが、幼少の頃より学習院で学びを受けた私は、皇室の皆様へ親近感をもって参りました。高円宮様が下級生におられたり、天皇誕生日には、当時の安倍能成院長の訓話の後、紅白のお菓子が振る舞われ、万歳を唱和いたしました。

 長じて、学習院卒業生たちの同窓会である桜友会の集いには、畏れ多くも陛下の御臨席を賜り、その優しい御人柄に接する機会に恵まれて参りました。

 今でも忘れられないのは、御在位二十年奉祝の折、皇居前広場に於ける式典のお手伝いをさせていただいた晩の事です。寒さ厳しき式典の最中、天皇皇后両陛下が登壇された際、えも言われぬ温かなオーラのようなものが会場全体を包み込み、集まった人々を至福に導いたことです。

 これこそ他に類を見ない、まさに万世一系の天皇を頂く日本国の神髄を感ぜずにはいられない瞬間でした。

 平成が終焉を迎える今年、譲位された後も、御健康に留意され、いついつまでも御息災に過ごされますことを、衷心よりお祈り申し上げ、感謝の誠を捧げたく思います。

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水樹 奈々(声優・歌手)

水樹 奈々(声優・歌手)

 手拍子をして歌を聴いてくださった両陛下

 天皇、皇后両陛下の御即位三十年に際しまして、心よりお祝い申し上げます。

 平成の三十年間について考えますと、私にとってはやはり自分を大人にしてくれた時代と捉えています。平成元年、故郷愛媛で歌手を目指し練習に没頭していた私は九歳でした。

 平成九年その夢が叶い、多くの皆さまに支えられながら、私は声優、そして歌手として声を届けるお仕事をさせていただけるようになりました。

 平成二十九年には、愛媛県で六十四年ぶりとなる「愛顔つなぐえひめ国体」が開催され、そのイメージソングである「えがおは君のためにある」を歌う機会にあずかり、さらに開会式でのミニコンサートのステージにも立たせていただきました。その折ですが、出席されていた天皇、皇后両陛下がおやさしい笑顔で手拍子をしてくださっているのが見え、とても感動したことを覚えております。生まれ育ったふるさとで、地元の皆さんの前で歌えたことだけでもこの上ない幸せですが、その姿を両陛下にご覧いただけたことを大変光栄に思っております。

 愛媛県は平成三十年七月豪雨により、各地が大きな被害を受けました。その際も両陛下がご来県くださり被災地をお見舞いくださったことを、報道はもちろんですが家族友人からも聞き及んでおります。

 平成の三十年間は災害がとても多い時代であったように思います。阪神淡路大震災、東日本大震災をはじめ各地で大地震が起こり、全国的に豪雨被害も多発しました。声優、歌手を生業としている身として、そうした有事の際には何もできない無力感に苛まれることもしばしばです。しかし、災害が起こるたびに被災地に赴かれ、人々に寄り添い、労っておられる両陛下のお姿を折に触れて目にし、微力ではありますが、音楽に何ができるのか、私の力でできることはないかを模索しながら、今後も精進していきたいと思っております。

 また、いつも仲睦まじく寄り添っておられる両陛下のお姿に、未だ独身である私は常々大きな憧れを抱いております。どうぞこれからも健やかにお過ごしくださいますよう、心よりお祈り申し上げます。

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水谷 隼(卓球選手)

水谷 隼(卓球選手)

 慈愛に満ちた穏やかな笑顔に畏敬の念

 天皇皇后両陛下におかれましては、御即位三十年をお迎えになられましたことを謹んでお祝い申し上げます。

 各地で天災が発生した際はいち早く現地に赴かれ、被災者の方一人一人に膝をついて励ましのお言葉をお掛けになる両陛下のご様子や、多岐にわたるご公務でお忙しい中、スポーツにも深くご理解を賜り、数々の大会へご臨席されるお姿を報道等で拝見する度、ただただ感銘を受け、絶えず慈愛に満ちた穏やかな笑顔には畏敬の念を禁じ得ません。

 先日行われました天皇杯で十度目の賜杯を手にさせていただきました際も、自身がこうして卓球に打ち込むことが出来るのは、永年日本の象徴として、いかなるときも国民のために御心を砕かれてきた両陛下のご存在のお陰だと、改めて感じた次第でございます。

 その恩恵を享受している幸せに、日本の卓球界を代表する一人として心から感謝するとともに、天皇皇后両陛下の今後益々のご健勝と皇室の弥栄を衷心よりお祈り申し上げ、お祝いの言葉とさせていただきます。

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森 敬惠(「甦れ日本の心コンサート」主宰・ソプラノ歌手)

森 敬惠(「甦れ日本の心コンサート」主宰・ソプラノ歌手)

 天皇皇后両陛下世界一の輝き

 あれは私が日本の未来に危機を感じて、活発に全国各地に「甦れ日本の心コンサート」をしていた頃の事でした。皇居清掃奉仕団の一員に加えて頂いた時の体験です。私にとって初めて皇室のありのままのお姿とお心に直接触れさせて頂いた貴重な四日間でした。

 その時、私は作業の中で三度も胸が詰まって涙を抑えきれないことがありました。一つはそのお暮らしぶりのつましい質素さに胸打たれて涙が溢れました。二つ目は作業中に皇后陛下がお車の中から私達にお声を掛けて下さった時、訳もなく涙にむせびました。三回目は天皇皇后両陛下から御会釈を賜った時でした。何故このように感動して涙が出るのか自分では分からないのですが、唯々有難く、唯々申し訳ない気持ちで一杯になったのでございます。誠に不思議な気持ちでございました。

 私達一般人の生活の中では一度も感じた事のない、何か崇高な気高さが胸を打ちました。

 その後、天皇陛下が大晦日から元旦にかけ夜を徹して大神様に祈られる「四方拝」の内容を知った時は一瞬胸が高鳴りました。私があの清掃奉仕の時何故涙があふれたのかが、その時初めて分かったのでございます。

 「この世で起こる様々の禍も困難も全て私の身の内をお通し下さい。全ての禍も困難も全部私が受けさせて頂きますから、どうか、我が国民をお守り下さい。」というお祈りをされておられるのでした。

 これこそが「日本人の心」だったのです。自らの全てを捧げてこのような祈りをして下さっているのですから、これほど有難い御存在は世界中どこを探しても見つかる訳がありません。天皇陛下の御心に対して、日本の国民が感謝の真心を捧げているのだと深い感動を胸に刻みながら、日本という国は何と誇らしい国であろうか!こんな美しい心を基盤に持っているからこそ、凛然と輝いているのだと思いました。

 天皇陛下、皇后陛下本当に有難うございました。

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矢沢 永吉(ロックミュージシャン)

矢沢 永吉(ロックミュージシャン)

 御即位三十年、心よりお慶び申し上げます。

 この度、御即位三十年をお迎えになられましたことを心よりお慶び申し上げます。

 昨今のテレビ報道で、沖縄をご訪問された際、これが最後のご訪問になるのでは… と聞き、感慨深いものがありました。

 三十年間という長きにわたり、常に人々の思いに寄り添われ幸せを祈ってこられました。

 本当に心よりお疲れさまでした。

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山縣 亮太(陸上短距離選手)

山縣 亮太(陸上短距離選手)

 天皇陛下に感謝を込めて

 天皇陛下のご在位三十年、まことにおめでとうございます。

 私は平成四年に広島で生まれました。

 日韓ワールドカップで日本中がサッカーブームに沸いていたころは私もサッカーや野球に熱中していましたが、小学校四年生のとき陸上クラブに入って本格的に陸上競技をはじめ、短距離選手として平成という時代を駆け抜けてきたことになります。

 その結果、私はこれまでに二度、天皇陛下からおことばを賜る栄誉にあずかりました。

 一度目は平成二十四年で、ロンドンで人生初のオリンピックに出場し、一〇〇メートルで準決勝まで進んだ後、茶会にお招きいただきました。二十歳になったばかりの大学生にとって、オリンピックと茶会は非常に特別な経験となりました。

 二度目は平成二十八年のリオデジャネイロオリンピックの翌年の園遊会でした。この時は社会人になって二年目のシーズンでしたが四×一〇〇mリレーで銀メダルを獲得することができました。

 二千人を超える招待者の中、我々四人のリレー選手に、陛下からねぎらいのお言葉を賜ったことは生涯忘れることのできない思い出となっています。

 昨年私は日本選手権で優勝。その後ジャカルタで開催されたアジア大会ではたくさんの日の丸の応援をいただき、一〇〇メートルでは銅メダル、四×一〇〇mリレーで金メダルを獲得しました。

 今、私は早く九秒台を出すことをみなさんから期待されています。それを実現して、今年の九月に中東のカタールで開催される世界陸上選手権大会に出場し、良い成績を出せればとトレーニングに励んでいるところです。

 私の出身地である広島は、平成二十六年に大きな地滑りに見舞われ、昨年は豪雨による甚大な被害が発生しました。私が幼いころからよく耳にした地名の多くも被害にあい、つらい思いでおりました。両陛下は広島にもお出でくださり、避難所などで被災者の方々に温かい励ましのお言葉をおかけになっておられました。そのお姿に私自身は深い感銘を受けましたし、ここでも、陛下の国民を思う優しいお気持ちに触れることができたように思います。

 天皇陛下に感謝を込めてご在位三十年を心よりお祝い申し上げます。

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YOSHIKI

YOSHIKI

 奉祝曲作曲――音楽家の使命に導かれて

 天皇陛下の御即位三十年を謹んでお慶び申し上げます。

 ちょうど二十年前、御即位十年を祝う記念式典に当たり、私は奉祝曲の作曲と御前演奏をさせて頂きました。当時の私は主にロック・ミュージックの分野で活動していましたが、音楽の原点は、幼い頃から学んだクラシックにあります。モーツァルトが宮廷で演奏したように、奉祝曲を作曲し、両陛下の御前で演奏する機会を頂いた光栄に、強い感慨をおぼえました。

 しかし、同時に、当時の私の心は深い闇の中にありました。その二年前、私のバンドXJAPANは解散を余儀なくされ、前年にはメンバーの一人を亡くしてもいました。絶望にとらわれて音楽の道を辞そうとさえ思い、自暴自棄に陥る。作曲の依頼はそんな失意の日々の中に届き、悩み抜いた末にお受けしたのでした。

 こうして作曲した奉祝曲『Anniversary』は、私個人のそのような歩みと、平成十年間の日本の歩みとを重ねた曲となりました。バブル崩壊、そして、阪神・淡路大震災から受けた痛手にいまだ苦しみ続けながらも、それでも、再び希望を掲げ、強く歩き出すこの国であるように――絶望からの再生をテーマに据えた奉祝曲を書き終え、両陛下の前で演奏を終えた時、再び、真っ白な心で、音楽の道を歩もうと思う自分がいたのです。作曲の機会を頂いたことが、音楽が、私を救ってくれたのでした。

 思えば、すべて芸術に立つ者は、その身に一つの使命を帯びているのではないでしょうか。それは、自らの作品を通じて人の魂に触れ、働きかけること。私自身が音楽に救われたように、他の人の魂を救うこと。奉祝曲作曲を通じてそのような使命を理解する機会を頂いたことを、深く感謝申し上げています。

 その後も、平成の日本は、東日本大震災をはじめ多くの災害に見舞われ、決して順風満帆ではなかったことを思い返します。

 それでも、その中にあって、両陛下は常に人々の苦しみに寄り添い、温かい励ましを与えておられました。その御心に深い感動と感謝の念をおぼえるとともに、御譲位の後はどうぞゆっくりとおだやかな時を過ごされることを願っています。

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ラモス 瑠偉(元プロサッカー選手)

ラモス 瑠偉(元プロサッカー選手)

 平成元年、日本国籍取得の喜びと誇りを胸に

 天皇陛下御即位三十年、誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。

 私がブラジルから日本に来たのは昭和五十二年のことです。経済的に裕福ではなかった家を助けるために日本に来ることを決断しましたが、日本ではまだサッカー競技が社会的に認知されていない時代であり、その中で苦しいことや辛いこともありました。しかし、妻や友人を始めとする人々との素敵な出会いがあり、その方々の真心にふれ、日本に来て四十年が経った今でもこの日本という国、そして国民を愛しています。

 私は天皇陛下が御即位され年号が昭和から平成へと移り変わった年に日本国籍を取得し日本国民となりました。その後サッカー競技において国際試合を行う度に、競技者として高いレベルで競技力を競い合うことが出来る喜びやこの国を背負って試合するという責任があったことはもちろん、日本国民の代表として国際試合という舞台に立てることが何よりの誇りでした。

 平成十年に現役を退き、国立霞ヶ丘競技場での引退試合を行った後に、天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典に出席させて頂きました。私自身が新しい道へ進むという人生の転機とも言えるタイミングで天皇皇后両陛下のお姿を拝見できましたことは今もなお深く心に残っております。

 スポーツは文化や言葉、国境を越えて人と人が出会い、高め合い、認め合い、学び合うことができる素晴らしいものです。今後も日本国民として生きていくことができる喜びと誇りを胸に、これまで以上にスポーツを通してこの国に貢献していく所存です。

 天皇皇后両陛下の益々のご健勝と、皇室の弥栄をお祈り申し上げ、天皇陛下御即位三十年のお祝いの言葉とさせて頂きます。

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渡辺 えり(女優)

渡辺 えり(女優)

 引き裂かれた家族に対して

 二〇一七年の春頃だったと思う。深夜NHKのアーカイブスで「引き裂かれた家族」という番組を観ていた。だいぶ前の番組の再放送であったが、先の大戦の後、そのままベトナムに残ってフランスからの独立戦争をホーチミンと共に戦い、ベトナムで家族を持った元日本兵たちのドキュメンタリーだった。一九五四年に帰国命令が下され、南ベトナム側だった日本兵はやむなく日本に帰国しなくてはならなくなった。ベトナムに残された家族は日本人の妻、子ということで差別を受け貧困の中で育つことになる。しかし日本兵を怨むことなく子供たちも差別に屈せず大人になり、時を経て元日本兵と対面するといった内容だった。帰国して日本で別の家族を持っても、ベトナムの家族のことを一言も打ち明けないまま亡くなった元日本兵もいる。日本とベトナム二つの家族が共に抱き合い、交流を始めた家もあった。ベトナムの妻たちは逆境の中、「愛」を抱えたまま、帰らぬ夫を数十年待ち続けた。涙が止まらなかった。

 この番組の最後、現在のこととして、天皇皇后両陛下がそのベトナムの妻たちをねぎらうお姿が映し出された。この年ベトナムに引き裂かれた家族たちに会いに行かれた映像だった。私はその優しさと無償の愛情に感動した。先の大戦で不幸な目にあったアジアの国々に出掛け続けて下さっていることはニュースで知っていたが、ベトナムに残された六〇〇人の元兵士たちの現地の家族に会いに行って下さっているとは…。

 戦争は思わぬ不幸をもたらし、人生を捻じ曲げ、心を凍らせ封じ込める。

 天皇陛下は戦争の犠牲者たちに寄り添い、その不幸をご自分の心と体全体で受け止めようとしているように思えた。皇后陛下も優しい笑顔で妻たちを受け止めておられた。ねぎらいの言葉を掛けられ、心に寄り添う。心無いバッシングで声を失われたこともある皇后陛下は、傷ついた弱者の心と重なり合えるのだろう。天皇陛下もまた、私たちの想像を絶するようなお悩みを抱えておられるに違いない。プライベートもなく、象徴天皇として、国民の平和と幸福を願い祈り、強く厳しく己を制し、相手には優しい態度を保つ。本当にお疲れになったであろう。これ以上戦争による犠牲者を出すまいと願う天皇の強い意志を感じながら私たちは生きてきた。そして、東日本大震災や熊本地震での素早い対応。沖縄だけに犠牲を強いる基地問題などに心を痛めている表情もしっかりと受け止めた。常に弱者の側にたち、少数の者たちの思いに身を寄せる。

 この優しさと愛情を私たちはいただき、この思いを未来へ向かう日本の精神的支柱にしていきたいと考えます。お辛いことが沢山あったと思います。本当にお疲れ様でした。私の生まれ故郷山形の温泉に皇后様と入ってゆっくりしていただきたいと願っています。

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