誇りある国づくりへ
行事報告

天皇皇后両陛下御大婚50年をお祝いする集い


平成21年4月10日、憲政記念館

(1)主催者挨拶①

森 喜朗

奉祝議員連盟会長(内閣総理大臣)

森 喜朗 奉祝議員連盟会長(内閣総理大臣)

 本日、天皇皇后両陛下には、御結婚五十年の誠に記念すべき日をお迎えになりました。

 このたびのご慶事をお祝い申し上げるべく、「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝いする集い」のご案内を申し上げましたところ、本日、衆参両国会議員、都道府県知事及び議長、ならびに経済界、学界、教育界、宗教界など各界代表のご来臨をかたじけなく致しました。皆様とともに、御結婚五十年をお祝いすることができますこと、心から嬉しく有難く思います。

 昭和三十三年十一月二十七日、皇室会議でご婚約が正式に決定し、翌昭和三十四年四月十日、「御結婚の儀」が執り行われました。軽井沢で一緒にテニスをなさったことがご縁で民間から初めてお妃になられるということで、当時、「テニスコートの恋」などと言われ、多くの国民が皇室に関心を持ち、喜びを共に致しました。

 しかし、多くの困難がある中で、皇后陛下のお気持ちを動かしたのは、国家と国民のことをひたすら思われる天皇陛下のお心だったと、当時の黒木東宮侍従長がこのように書いておられます。

「『度重なる長いお電話のお話しの間、殿下はただの一度もご自身のお立場への苦情をお述べになったことはおありになりませんでした。またどんな時にも皇太子と遊ばしての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐものとはっきり仰せでした』と、後に妃殿下はしみじみと述懐なさっていたが、この皇太子としてのお心の定まりようこそが最後に妃殿下をお動かしたものであったことはほぼ間違いない。」

 皇太子としての義務が最優先であり、国民のためにしなければならない大きな仕事のために力を貸してくれないか、このような天皇陛下のお言葉に感動されて、皇后陛下は多くの困難を克服されて、結婚されたというのです。

 このような天皇陛下と皇后陛下の御結婚を、当時の国民は心からお祝い申し上げました。御結婚された昭和三十四年四月十日午後には、オープン馬車で皇居から東宮仮御所までのパレードが華麗に行われました。沿道には、五十三万人の人々で埋め尽くされ、千五百万人がテレビ中継でこの歴史的お祝い行事を拝見しました。この御結婚が契機となり、当時高価だったテレビが多くの一般家庭に普及したといわれています。私自身も名古屋の友人のお宅で心ときめかしてテレビにくいいりました。

 この国民挙げてお祝い申し上げたことについて、皇后陛下は十年前、御即位十年に際しての記者会見で、「私は、今でも深い感謝のうちに、昭和三十四年の御成婚の日のお馬車の列で、人々から受けた祝福をよく思い出します」と、お述べになっています。当時の国民の祝意を、皇后陛下はいつまでも記憶にとどめてくださっていらっしゃるのです。

 国と国民のために尽くそうというお心を通じて御結婚された天皇皇后両陛下と、その御結婚を心よりお祝い申し上げた国民、こうした実にうるわしい国柄がパレード参加五十三万人という形で示されたのが、昭和三十四年四月十日という日だったと思います。私事で恐縮ですが、早稲田大学の大学生だった私が自民党学生部に入党し、政治の世界に入ったのが、この昭和三十四年四月のことでした。このたび、天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟の会長に推挙され、議員連盟を代表してご挨拶を申し上げることができますことに何か運命的なものを感じてなりません。

 本年、天皇陛下には新年にあたって、「今年は、私が即位してから満二十年、私どもが結婚してから満五十年にあたりますが、歳月の流れにいろいろと思いを致しております。皇后と共に、これからも、国と国民のために尽くしていきたい」と、お述べになりました。

 ひたすら国と国民のために尽くしてこられた天皇皇后両陛下の五十年に思いを致し、深い感謝の思いをもって御即位二十年奉祝事業を推進することをお誓い申し上げるとともに、両陛下の御健勝と皇室の弥栄を心からご祈念申し上げ、主催者の式辞といたします。


(1)主催者挨拶②

岡村 正

奉祝委員会会長(日本商工会議所会頭)

岡村 正 奉祝委員会会長(日本商工会議所会頭)

 ただいま、ご紹介を賜りました岡村でございます。主催者を代表致しまして、ひとことご挨拶を申しあげます。

 天皇陛下におかれましては、本年一月七日に御即位より満二十年を、また本日四月十日には、御結婚より満五十年という慶賀の年をお迎えになりました。私どもは、まずもって、このたびの重ねての御慶事を心からお祝い申しあげます。

 皇居では本日、御結婚五十年を神々に奉告される宮中祭祀や、各界代表から祝意をお受けになる祝賀行事が執り行われております。これに前後して、政府・関係省庁や報道機関でも各種記念事業や特別番組、記念出版などが相次ぎ実施され、両陛下の五十年に亙るご事績が広く国民各層に周知されておりますことは、誠に意義深いことと存じます。

 奉祝国会議員連盟、および私ども奉祝委員会におきましても、御即位二十年奉祝事業の一環として、このたびの御慶事をお祝い申しあげる祝賀行事として「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝いする集い」を企画し、皆様にご案内いたしましたところ、本日は、全国の各界からこのように多数の皆様方のご列席をいただき、主催者を代表致しまして、心から厚く御礼申しあげます。

 また、昨年十二月の「天皇陛下御即位二十年奉祝中央式典」におきましては、四千名という各界代表のご列席のもと、御即位二十年をお祝い申しあげる中央式典を盛大かつ厳粛に執り行うことができました。この場をお借り致しまして、ご協力いただきました皆様方に、主催者を代表し、重ねて御礼申しあげる次第でございます。ありがとうございました。

 さて、ちょうど五十年前の本日は、敗戦の焼け跡から出発した戦後日本にとって、最も晴々しい日でありました。皇居・賢所で「結婚の儀」を恙無く執り行われた両陛下は、皇居正門から東京都内約九キロを儀装馬車によりパレードされました。両陛下をお祝いしようと、直接沿道で出迎えた人々は五十万人以上、またテレビの前でお祝いをした人々は全国で千五百万人に及んだと記録されております。

 この世紀のパレードは、この後に続く東京オリンピックなど、我が国が焼け跡から復興し、さらには高度経済成長への道を歩む歴史の中で、まさに象徴的な一日となりました。当時、大学生であった私は、この日のご盛儀を、晴れやかな気持ちで迎えたことを、今でも印象深く覚えております。

 天皇陛下におかれましては、かつて、「私にとり、深い喜びをもたらしてくれたものは、皇后との結婚でした。どのような時にも私の立場と務めを大切にし、優しく寄り添ってくれたことは、心の安らぐことであり、感謝しています。」とのお言葉がございました。

 また、長年、両陛下の下で過ごされた当時の紀宮様、現在の黒田清子様は、この五十年間の両陛下の絆について、次のように仰られています。

 「両陛下のお間の絆は、陛下の全てに添われていく皇后様のご姿勢にも、楽しく、時にはおかしな事を共に笑い合われる微笑ましい場面にも感じられますが、その深さの源にあるのは、皇后様が、皇太子、天皇というお立場を常に第一に考え、行動される陛下のお考えを、誰よりも尊重され、支えてこられた来し方ではないかと感じています。」

 「国民とともに歩む」ことを常に念頭に置かれてこられました天皇陛下、そして「心を寄せ続ける」ことを常に大切にしてこられました皇后陛下。私共国民は、こうした両陛下の大きな御心の中に包まれ、いついかなる時も日本人としての一体感を保ち、その責任を担うことで、わが国の繁栄、発展を築き上げることができたのではないかと存じます。

 天皇陛下におかれましては、本年の年頭に当たり、未曽有の経済危機に直面した我が国の現状を深く憂慮され、「国民の英知を結集し、人々の絆を大切にしてお互いに助け合うことによって、この困難を乗り越えることを願っています」との、励ましのお言葉を賜りました。

 陛下のお言葉のとおり、現下の我が国経済は、引き続き、未曽有の危機に直面しておりますが、このような時こそ、私共は、陛下のお言葉を大切にいただきながら、国民の絆をいっそう強くするとともに、経済界に身を置く者として、英知を結集してこの難局を一日でも早く乗り越えて参りたいと存じます。そして、本年十一月十二日に開催を予定しております皇居前広場における奉祝行事を、両陛下にお慶びいただける行事として結実させることができるよう、準備に努めてまいりたいと存じております。本日ご列席の皆様方の引き続きましてのご指導、ご協力をよろしくお願い申しあげます。

 結びにあたり、天皇皇后両陛下の益々のご健勝と、皇室の弥栄を心からお祈り申しあげまして、主催者の挨拶とさせていただきます。


(2)政府代表挨拶

松本 純

内閣副官房長官

松本 純 内閣副官房長官

 本日、天皇皇后御大婚五十年をお祝いする集いが、このように盛大に開催されますことは、まことに意義深いものがあり、心からお喜び申し上げます。また、関係各位のご尽力に深く敬意を表するものでございます。

 昭和34年4月10日、国民こぞっての祝福のなか挙行された両陛下のご成婚は、戦後の復興を経て、その後、わが国の経済・社会が大きく羽ばたこうとする時代にあって、わが国の明るい未来、明日への希望を象徴するものに他なりませんでした。沿道に53万人が祝福したご成婚のパレードは、今なお、私どもの鮮明な記憶となって私どもに残っています。

 その後、わが国は飛躍的な経済の成長を果たし、国際的にも大きな地位を占めるまでに至りました。そしてわが国はもとより、世界が大きく変わっていく中で、「内平らかに外成る」との願いをこめ、平成の御代も二十年を数えるに至っております。その間、両陛下は皇居でのご公務はもとより、日本各地で行われる各県の事業にお出ましになるとともに、友好親善のために諸外国ご訪問を重ねてこられました。文字通り休まれることなくご公務に精励してこられたそのお姿は、まさに日本国及び日本国民の象徴でありました。

 また相次ぐ災害に際し、被災地にお見舞いいただき、被災者の方々はどんなに励まされ勇気をいただいたことか、まことに有難く改めて感謝申し上げたいと存じます。

 思えばこの五十年は、両陛下が国民と共に歩んでこられた歴史であり、国民と皇室を繋ぐ敬愛と信頼の絆の証であるとの念を深くする次第でございます。

 現在、わが国は世界的な金融危機など、様々な困難に直面しておりますが、私どもは両陛下の御心を体し、わが国の発展や世界平和の実現の為に、渾身の努力をもって使命を果たしていく所存でございます。

 本日、天皇皇后両陛下におかれましては、ご成婚満五十年をお迎えになりました。この大変お目出度きことを皆様と共にお祝い出来ますことは、私どもの何よりも喜びとするところであります。ここに天皇皇后両陛下のご健康と皇室の末永いご繁栄を心からお祈り申し上げ、お祝いの言葉とさせていただきます。


(3)各界からのご祝辞①

明石 元紹

ご学友・元学習院大学馬術部監督

明石 元紹 ご学友・元学習院大学馬術部監督

 明石と申します。私はあの単なる陛下の長い間の同級生の一人でありまして、このような盛大な正式な会にお話を申し上げる立場にはないと思いますが、陛下とは大変長い間、主に陛下のわずかな私的な部分でお楽しみのお相手をさせていただいた者でございます。

 私は戦前、学習院の付属小学校がございました、その時にご幼少の陛下とお会いしたのが始まりでございます。ちょうど小学校初等科の時代は、全く戦争と重なっておりました。私どもは陛下とご一緒に、最初は沼津、次は日光、奥日光と、疎開を共に致しました。大変食料もなく、陛下も私どもと同じご苦労をされています。そして高等科になりまして、私はたまたま陛下と同じ馬術部で、競技等ご一緒にさせていただいた、そういうご縁でございます。

 皆様方もご承知だとは思いますが、長い間いろいろとお相手をさせていただいたうえで、両陛下のお人柄については、かなり詳しく存じておるつもりでございます。何しろ陛下は、嘘、それとパフォーマンスですね、これが大変お嫌いなご性格で、記者会見でも非常に真摯な謙虚な、そして冷静な人格をお持ちになっておられます。

 私はご結婚後、三十年間にわたり日曜日だけでございますが、唯一のご趣味とも言ってよい、先ほどご紹介ありました馬のポロと、私は大変下手なんでありますけれどもテニスをお相手しておりました。その間、両陛下の日常のご生活を何となく垣間見て参りましたが、お二人は大変協力をなさって、今までの皇室とはやや違ったかたちで合理的に普通のご家庭と同じようにお子様たちを教育したりしつけたりなさっておられました。

 長いこと拝見しておりますと、ある一つの変化を私は感じております。ご結婚後、四十代くらいまではどちらかというと大変好奇心が強くて西欧の文化だとか、外国の文化にご興味があって、史上類をみないような外国ご訪問をなさっておられます。それが、約二十年くらい前からですね、どちらかというと、日本の伝統文化あるいはそうしたしきたりに大変志向が変化して参りまして、今では日本の伝統文化やしきたりに全力で向かっておいでになるように感じております。

 そういう方も多いと思いますが、あれだけ世界をご覧になったうえで日本に回帰をなさっていることは大変意味があるし、ある意味では本物であると思っております。二、三エピソードを申し上げますと、皆様ご承知でお読みになった方もいらっしゃるかと思いますが、ご結婚前あるいは青春時代に小泉信三さんにたいへん人間形成のうえで教えを受けておられますが、小泉信三さんはある随想の中でこういうことを書いていらしたんですね。それは、「戦争の激しい時期に、僕はうちの家内にある花を贈ることを習慣としている。」で、その花の名前も出ておりましたが、こんな戦争の時代に家内に花を贈るなんでどうかしてるかなと、というような半ば自嘲ぎみの随想を書いていらっしゃるのです。

 それで小泉先生は、昭和四十二年に突然心臓のご病気で他界をされました。その年のお誕生日に、小泉さんが書いていらっしゃったのと全く同じ花が奥さまに届いたんですね。これは、両陛下、特に僕は皇后さまだと思いますが、この随想を読んでいらして、お一人になった奥様にお届けになった。それ以降、奥様さまがお亡くなりになるまで、このお花は続いていたそうでございます。

 それからもう一つのお話は、私は日曜日にポロという競技をご一緒にしておりまして、皇后さまやお子様もご参加になって大変家庭的な日曜日を過ごしていらっしゃいましたが、もう馬をやたらに使うものですから、インタバルがございましてね、その時に質素ではございましたが東宮御所の片隅に大きなすずかけ木がございまして、その下でお茶を戴くのですね。時には焼きいもなんかもやっておりました。その時には、私ども仲間と、それから馬を運んで来る宮内庁の職員は必ず一緒に座らせて、雑談をしておりました。その時にハッとしたことがあったのですが、馬を運んでくるトラックの運転手が、ずっと遠慮して門の近くの殆ど見えないところに居たんです。それを当時の殿下は「なんであの運転手さんも呼ばないの」と言っておられました。これは私にとっては非常にショックでありました。やはり、陛下の殿下のお立場になりますと、どんな仕事をしておりましても日本人は日本人としてご覧になっているんだなと感じました。

 まああとは、その最近感じることですけれども、先ほどもお話にありましたが、天皇皇后両陛下は公のご公務に全力投球なさっているように感じます。本当にご自分の楽しみや、我々みたいな友人などとのお付き合いはなるべくご遠慮なさって、二十四時間、日本人のため世界の平和のために時間を費やしていらっしゃると思います。まあ以上でございますが、本当に五十年間、両陛下は文字通り手に手をとって助け合って、いろんな困難に立ち向かってこられたかと思います。本当に日本の夫婦とすれば、お立場はこういうことでございますけれども、一般の人々にとっても模範的なご夫婦であったと申し上げまして挨拶の言葉と致します。


(3)各界からのご祝辞②

宇崎 竜童

作曲家・ミュージシャン

宇崎 竜童 作曲家・ミュージシャン

 天皇皇后両陛下御大婚五十年、まことにおめでとうございます。心よりお祝いを申し上げます。昭和三十四年四月十日、私は十三歳で、御成婚パレードを中継するテレビの前で家族と一緒に、馬車に乗られた両陛下の輝く笑顔に見とれておりました。

 あの日から半世紀たちまして、私は作曲家をしております。私の妻は阿木燿子(あきようこ)というペンネームで作詞をしております。平成十八年(二〇〇六)秋、妻は紫綬褒章(しじゅほうしょう)を頂きました。授賞式には配偶者も来て良いということでしたので、私は妻に同行して、新調したモーニングを着て初めて皇居に伺いました。間近で拝聴いたしました天皇陛下のお声は、低音と高音が同時に発せられる倍音(*)でした。深く心に響く素晴らしいお声で、お歌もお上手でいらっしゃるのではと想像いたしました。

(*)倍音~一つの音を構成する部分音は、最小振動数の基音と、それ以外の上音である。上音のなかでも、基音の整数倍振動数を持ついくつかの部分音(たとえばオクターブ上)を倍音という。ハーモニックス(harmonics)。

 翌年春、妻は園遊会にもお招きをいただきました。配偶者も出席して良いとのことでありましたので、今度は背広を新調して、赤坂御苑の方に同行いたしました。美しい雅楽、荘厳な吹奏楽が奏でられ、参列者は皆、その風景に溶け込んでおりました。私は、もうそれだけで幸せ一杯でしたが、妻の方は、発言に失礼があってはならないとそればかりを考えて緊張しておりました。天皇ご一家は芝生の丘の上からゆっくりと下りていらっしゃいました。私たちの緊張もピークに達していました。陛下はにこやかにゆっくりと、「お二人で歌をお作りになるのはご苦労もおありでしょうね」と妻にお声かけ下さいました。妻は「はい。仲良く喧嘩をしながら作っております」と申し上げたのですが、陛下には一部お聞きとりづらいところがあったご様子で、少し身を乗り出されるような姿勢になられました。慌てた妻は、「離婚を考えたことも度々でございます」などと申し上げてしまいました。

 おかしな発言は慎むようにと申しておりましたのに、あとの祭りでございました。夕方のニュースでは園遊会の模様が録画中継で放送されていましたが、私たちのところはその件(くだり)ばかりでございました。陛下から私の方へは「作曲もご苦労がおありでしょうね」とお声かけ頂き、勇気のわく心に響くお優しいお声でございました。皇后陛下からは「あなたは俳優もなさっておられるのですね。明日、あなたの出演していらっしゃる映画の試写会にお招きを頂いております」という内容のお言葉を頂きまして、私はレコーディング中でしたので試写会には欠席する予定でしたが、慌てて出席にさせて頂きました。三枝健起監督の『オリヲン座からの招待状』という映画です。二時間あまりの上映中、皇后陛下はシートに背中をもたれることなく背筋をまっすぐにのばされ、ご覧になっておられました。そのお姿に非常に感激いたしました。別室にて製作者、出演者にお声かけがございました。この作品での私の役柄は映画館の映写技師で、前半三十分ほどで病死してしまう役でした。皇后陛下は「あなたはすぐに亡くなられてしまわれたけれども、こうして生き返ってこられて良かったですね」と仰いました。そして、「昔は映画館が町に何軒もございましたね。三本立ても見に参りました。一本目二本目とチャンバラでございました。三本目は何かなと思っておりましたら、エノケンでございました」とユーモアたっぷりに思い出をお話下さいました。

 二日続けて皇后陛下にお声かけ頂いたこと、私の大いなる喜びであり自慢でございます。特集記事などの報道写真で改めて拝見する両陛下の仲むつまじいお姿は、心に安らぎをお与え下さいます。御大婚五十年をお迎えになった天皇皇后両陛下の、ますますのご健康をお祈り申し上げ、私のお祝いのご挨拶とさせて頂きます。


(3)各界からのご祝辞③

服部 郁弘

全国漁業協同組合連合会代表理事会長

服部 郁弘 全国漁業協同組合連合会代表理事会長

 この度は、天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝いする会にお招きにあずかり光栄に存じます。

 天皇皇后両陛下には、毎年、「全国豊かな海づくり大会」にご臨席賜り、水産業の発展に深い御心をお寄せ頂いている事に、全国の漁業者を代表して一言御礼申し上げたく存じます。

 「全国豊かな海づくり大会」が始まったのは、昭和五十六年九月の大分県鶴見(つるみ)町の漁港でした。その第一回大会から第七回大会まで、皇太子殿下・妃殿下としてご臨席を賜りました。その後、平成の御代となりましてからは天皇皇后両陛下としてご臨席賜り、昨年の第二十八回の新潟県大会まで全国各地の浜に引き継がれております。「豊かな海づくり大会」は、森から川、海につながる環境保全の大切さを広く全国にアピールし、「つくり育てる」漁業の推進を通じて、明日の我が国の水産業の振興と発展に大きく貢献しておりますが、「海づくり大会」が成功致しましたのはひとえに天皇皇后両陛下のお陰だと思っております。

 「海づくり大会」では、天皇陛下からお言葉を賜っておりますが、このお言葉に、どれほど漁業に対する誇りや意欲、使命感などを喚起されたことでしょうか。天皇陛下は「海には無数の生命の種が宿っており、その種は良い環境が与えられれば大きく実るものであり、今日の海づくりは明日の海の幸をもたらします」とおっしゃられ、繰り返し海づくりの重要性を訴えておられます。更に陛下は水産資源の減少や海の環境悪化に大変心を痛められ、このような状況に対処するために、「栽培漁業の推進や藻場の造成、水産資源の回復を図る努力がすすめられ、同時に植林活動や海岸の清掃など、森、川、海に関わる人々が協力し合って海の環境を良好に保つための活動を行っていることを聞き、まことに心強く思っています」とお述べになられました。

 このようなお言葉を励みとして、私共漁業者たちは資源増大の取り組みや植林活動を推進することとなり、今や「漁民の森づくり」の運動は全国的な広がりを持ち始めています。天皇陛下のお言葉を通じて、母なる海の恵みを絶やすことなく守り育て、次の世代に引き継いでいくことこそが、私共全国の漁業者に課せられた使命であると改めて自覚するようになったのです。

 さらに、両陛下から、様々な困難を乗り越える勇気と誇りも頂いてきました。

 式典ではいつも漁業関係者の子供たちの作文の発表が行われています。第二回の兵庫県香住(かすみ)漁港での大会では、沖合で操業中発生した漁船の事故により父親を失った小学生が「海の子」と題した作文を朗読しました。この小学生は自分に対して「絶対に船には乗るな!」と訴える母親のつらい気持ちに触れながら、さみしさを乗り越え、「僕は海の子だ。海の子は海に生きよう。父の名をつけた船のマストの上で、力一杯手を振ってみたい」と元気に発表いたしました。こうした漁船海難事故で亡くなった方の遺児に対しまして、両陛下は大会の会場で優しくお声をかけて下さいます。そのことがどれほど子供たちの励みとなり勇気を頂いたことでしょうか。

 式典の後、海上歓迎行事においてタイやヒラメ、車エビなどの稚魚を両陛下にご放流頂いております。ご放流された稚魚が元気に泳いでいく姿をご覧頂き、ニッコリと笑顔を合わされている両陛下のお姿を拝見しながら、参加した皆様と豊かな海づくりへ向けた願いを共にしております。

 恒例のクライマックスは漁船パレードです。大漁旗をたなびかせた漁船に乗った漁業者は、大きく手を振ります。両陛下からもお手を振って頂き、胸を張って明日からの漁に挑むことができます。しかし、昨年は漁船の燃油価格が高騰し、漁に出たくても出ることができない状況が続きました。このようなことから、燃油代のかかる漁船パレードについて、陛下が胸を痛めておられるとの話が地元の漁業者に伝わりました。漁船の燃油代のことまでご心配になる両陛下の御心に感激した漁業者たちは、パレードを取りやめるかわりに、沖に船を繋ぎ、船の上から気持ちをこめて歓迎をさせて頂きました。両陛下もこれに応えて、何度もお手を振って頂いたことが今も心に深く残っております。

 このように全国の港みなとで開催される「豊かな海づくり大会」において、両陛下のあたたかいお心に触れることを通じて、私共はこの豊かな海を守り、その恵みを次の世代に引き継いでいくという尊い使命を自覚し、漁業者としての誇りを育むことが出来たのです。天皇皇后両陛下、本当に有り難うございます。ここに、両陛下の御大婚五十年を心よりお祝い申し上げますと共に、両陛下のますますのご健勝とご皇室の繁栄を心よりお祈り申し上げます。


(3)各界からのご祝辞④

佐藤 愛子

作家

佐藤 愛子 作家

 天皇皇后両陛下が御大婚五十周年をお迎えになりましたことを心よりお慶び申し上げます。昭和八年、陛下がお生まれになりました時、私は小学校五年生でした。その頃、内親王のご誕生が続き、皇室も国民もこぞって日嗣御子(ひつぎのみこ)のご誕生を待ちもうけておりましたときに、皇太子殿下がお生まれになったわけです。全国が熱狂しました。私も旗行列に参加して、

「日嗣御子は生(あ)れませぬ、日嗣御子は生れませぬ」

と歌を歌って、勢いよく日の丸の小旗を振ったことを覚えております。私の父は、神棚に御灯(みあかし)をあげまして日嗣皇子が御誕生になりましたことを神様に感謝し、将来の皇室がご安泰であられますようにと、長いこと祈っておりました。

 昭和八年という年は、軍事色が強まっていた時代で、それ以降は日独同盟、中国との戦争から、アメリカ、イギリスを向こうに回すという状況にまでなっていきました。だんだん戦況が悪化していった昭和十八年に、皇太子殿下が栃木県の日光にご疎開遊ばされたという新聞の報道を読みまして、私は何かずしんと奈落の底に落ちていくような気がいたしました。皇太子殿下が皇居を離れて、田舎にいらっしゃるということは、そこまで日本の戦況は切迫しているのかと。当時、殿下は十歳でいらっしゃいました。十歳といいますと、まだ両親に甘えたい少年もいるような年頃でございます。そんな時分に殿下は、田舎へ疎開なさいました。陛下の孤独はその時から始まったように私は思います。もう、十歳の頃には、将来天皇におなりになる方としての帝王学もお受けになっておられましたでしょうから、国の先行きを思ったり、ご自分が背負わなければならない重責を思ったり、不安に駆られたり―慰めて励ます人はおられたのかどうかは分かりませんが―そういう孤独を背負った十歳というのは、私はいま思うだに心が痛みます。

 それから日本は戦争に負けまして、十二歳の時に殿下は東京にお戻りになりましたが、焼け果て、焼けただれた東京をご覧になって、本当にびっくりなさったということで、その時のお気持ちを忖度いたしますと胸迫る思いがいたします。

 やがて昭和三十四年になって覆っていた雲が晴れました。美智子様との御成婚によって、殿下の孤独は無くなった、あぁ良かったとひそかに安堵しておりました。その時に殿下の英語の家庭教師をされていたヴァイニング夫人が、美智子様のお写真を見られてこういうことを仰ってます。「私の心が思わず歌い出したほど、勇気と優しさと聡明さに満ちたお顔だった。私はこれで大丈夫だと思った」と。ヴァイニング夫人はそう思いながら東宮仮御所を訪問しお祝いをなさったのですが、それについてこう書いています。

 「私は殿下にお目にかかって、すぐ殿下がお変わりになっておられるのを感じた。殿下は幸福そうであった。そればかりでなく、深い内的な自信をお持ちのようだった。それはあるものを得たいと心からお望みになって、その目的を達するためにあらゆる努力をお傾けになり、ついにみごとに目指すものを獲得なさったところから生まれてきたものであった」

 ここで、陛下の孤独の雲は完全に拭い去られたと私は思います。ところが、国民がこぞってお祝いをした時が過ぎますと、今度は、皇室が神秘の扉の向こうにあった時代には無かったような新しい雲が現れてきまして、そのうち五十年経ちました。この五十年で、日本はすっかり変わってしまいました。率直に言いますと、言いたいことを言える時代、したいことを出来る時代。それに、美しいものと醜いものとが混乱してしまっている時代。価値観の多様化などと言って、かつての日本人が少しずつ変貌しつつあって、そしてついに今日に来たという、私のような大正生まれはそういう感を殊に強く持つようになっております。

 しかし考えてみますと、国民は、自由気ままに享楽的に暮しているにもかかわらず、皇室は少しも変わっておられない。天皇陛下の無私と寛容、そして皇后陛下の努力と忍耐力。お二方共に強靱な精神力をもって培われた美徳だと私は思います。お二方だけが日本人の伝統的なあるべき日本人の姿を失うことなく私たちに示しておられるのです。だけど、私たちはそれを天皇皇后お二方だけのお姿として、お手本にしようという気持ちも失っております。

 皇后陛下が、天皇陛下御即位十年の天皇誕生日に詠進されたなかにこういう御歌がございます。

 うららか

 ことなべて御身ひとつに負ひ給ひうらら陽のなか何思すらむ

 この御歌にあらわれる皇后様の天皇陛下に対する切々たるお気遣い、私はこの御歌を拝するたびにその美しいお気持ちに、胸打たれます。お二方は、私たちが苦しい人生を生き抜くための、私たちのお手本だと私は思っております。これからは両陛下の御心が安らかにあらせられますように、それのみを私は祈っております。


(3)各界からのご祝辞⑤

猪谷 千春

IOC(国際オリンピック委員会)副会長

猪谷 千春 IOC(国際オリンピック委員会)副会長

 天皇皇后両陛下におかれましては、本日、お健やかに御大婚五十周年をお迎えになられました。謹んで心からお祝いとお慶びを申し上げます。

 天皇陛下に初めてお目にかからせて頂きましたのは、陛下が御年十六歳の時で、まだ皇太子の時でいらっしゃいました。その年、殿下がスキーを始められることとなり、宮内庁からご指南役として私の父・猪谷六合雄(くにお)がご指名頂き、私は補佐役として同行させて頂くことになりました。その時以来、長年、殿下のスキーのお伴をさせて頂くようになり、またスキートレーニングの一貫としてテニスをしておりました私は、殿下のテニス友達のグループにも入れて頂く栄にも浴し、皆さんとご一緒にプレイを楽しませて頂くようになりました。

 テニスにまつわる様々な思い出の中で、やはり何といっても一番の思い出はお仲間の中に、お一人、一段と輝いていらしたお嬢様にお会いしたことでした。その方が、美智子様だったのです。テニスがとてもお上手でお美しく、明るくて聡明なこのお嬢様には、失礼ながら私も含めて周りの男性は皆心を奪われておりましたが、まさか殿下もひそかに美智子様のハートを狙っておられたとは夢にも思っておりませんでした。やがて御成婚が発表されると、テニスに一大ブームが巻き起こり、テニスをしない若い女性までもが、ファッションの一部としてテニスラケットを肩に担いで颯爽と街を歩いていたことを思い出します。

 殿下と美智子様は、よく一緒に組まれて混合ダブルスをされておられました。お二人のチームワークはなかなかのもので、どちらかというと堅実でオーソドックスなテニスをされる殿下がベースラインを守られ、積極的なネットプレーを得意とされた美智子様がネットにつくという、このフォーメーションが出来上がると無類の強さを発揮されました。そして、どちらかがミスをするとお互いに優しく声をかけてかばいあい、コート場でも何とも微笑ましいお二方でした。

 また、スキーをご一緒させて頂いて、特に強い印象を得ましたのは、両殿下の国民に対するひたむきな思いに接した時でした。スキーを最初に始められた時のこと。もし〝神風スキーヤー〟にぶつかりお怪我でもされたらそれこそ大変ですので、スロープの一角にロープを張って一般のスキーヤーがすべりこんでこられないように準備いたしました。それをご覧になられた両殿下は即座に、「同じようにスキーを楽しみに来ている人たちのスキー場を、自分たちのために狭めるようなことがあっては絶対にならない」と大変厳しくおっしゃられ、事情をご説明申し上げてもついにお許しを頂くことができず、大変悩んだことがありました。また両殿下にはご日程が限られているものですから、なるべく短い時間を有効に使って頂こうと、スキーパトロール用の入り口からリフトにお乗り頂けるように手配しました。当時は今と違い、リフトの数も少なく、一回乗る毎に小一時間行列をしなければ乗れない時代でありました。しかし、ここでも両殿下は「他のスキーヤーはみんな並んで乗る順番を待っているんだから、自分たちも同じように並んで待つ」と主張されまして、長い列の一番後ろに並ばれたのには、周りにいたスキーヤーたちは両殿下の思いやりに大変感激したものでございます。

 また両殿下に少しでも早く上達して頂こうとの思いから、シーズンが始まる前に、前の年よりも性能が向上したスキーの板やスキー・ウェアーをお召しになって頂こうと、その旨を申し上げても、「今までのものはまだ傷んでいないから、変える必要はない」と首を縦に振っては頂けませんでした。それにしても、妃殿下のウェアは流行おくれになっておりまして、大変気の毒に思い、何とか殿下に翻意して頂こうと考えました。そして、思い余った私は、窮余の策として「殿下、私がお付きしているのに、あのように古い板やウェアをお召しになっていると、『いったい猪谷は何を考えているのか』と私が笑われます。申し訳ありませんが、ここは私のメンツを立てて頂けませんでしょうか」と懇願して、やっと新しい道具を揃えることに同意して頂きました。

 皇族の方は、いつもきらびやかな面だけが報道されているようですけれども、実際は、このように本当に質素なご生活を送られていることを目の当たりにいたしまして感激いたしました。国民と日本の国のことを常に頭におかれてご公務におつきになっておられる天皇皇后両陛下には、くれぐれもご自愛いただき、国民統合のシンボルとして、いつまでも国民の頭上で光輝いて頂きたいと衷心より願っております。


(4)事業計画の発表

平沼 赳夫

奉祝議連実行委員長(衆議院議員)

平沼 赳夫 奉祝議連実行委員長(衆議院議員)

 「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝いする集い」が、今日のよき日に開かれ、それぞれの方から大変貴重なお話を拝聴できましたこと、誠に喜ばしく思います。

 この高まる慶祝の気持ちを胸に、三月二日に開催されました、天皇陛下御即位二十年奉祝委員会と奉祝国会議員連盟の合同役員会で決定した、今後の奉祝事業計画について、報告させていただきます。

 最大の記念事業は、本年十一月十二日、皇居前広場にて数万人規模で開催する「御即位二十年をお祝いする国民祭典」です。この日、十一月十二日には、すでに政府主催の記念式典が開催されることが閣議決定されています。この政府式典の終了後、皇居前広場をお借りして、奉祝委員会と奉祝国会議員連盟の共催で開催する予定です。この国民祭典のプログラムは現在検討中ですが、二重橋前に特設舞台を設けて、両陛下と縁のある方や各界を代表する方々にご参列願い、ご祝辞を頂きたいと思います。

 そして、夕闇迫る頃から提灯の灯をともし、叶いますならば、両陛下にお出まし願い、皇居前に集った数万名の皆さんとともに、両陛下に奉祝の誠を捧げたいと思います。私ども奉祝国会議員連盟では、高校生なども含めた幅広い年齢層が皇居前の国民祭典に参加できるよう、この十一月十二日という佳き日を臨時の休日とする臨時休日法を国会で議決するよう努力しているところでございます。

 一方、政府の方では、十一月十二日の政府式典で上映すべく、御即位二十年の記念記録映画を製作中と伺っています。この記録映画の完成を早め、地方自治体や学校現場においても上映するなどして、御即位二十年を機会に天皇陛下への理解と敬愛の念が若い世代にも育まれるよう働きかけたいと思っています。

 また、宮内庁では、ホームページの充実や、両陛下二十年のお言葉、御製、御歌をまとめた記録集『道』の続編の編纂・発行などを決定しスタートしております。更に文部科学省では、秋のスポーツ大会や武道大会を「御即位二十年記念」と銘打って開催し、厚生労働省では、パラリンピックや全国障害者技能競技大会等で、パネル展示会などの記念事業を実施し、農林水産省では、秋の農林水産祭などで両陛下の特別展示会などの記念行事を計画していると伺っています。

 ここでご紹介させていただいたのはごく一部ですが、内閣府では、このような様々な政府・各省庁の記念事業を広報する専用ホームページを開設することを検討していると聞いています。せっかくの記念事業ですので、国民の皆さんが広く参加できるよう広報に努めて戴きたいと思います。

 全国各地でも、奉祝記念事業が推進されています。昨年より、地方自治体と連携して全国各地で奉祝式典や記念植樹、御製碑の建立などの記念事業が既に実施されたり、計画されたりしております。

 中央の奉祝委員会には、全国すべての都道府県知事並びに都道府県議会議長が奉祝委員に就任され、本日も十数県の県議会議長にご参列頂いております。総務省にもご協力頂き、地方における奉祝事業を官民あげて取り組んで頂ければ幸いに存じます。特に本日展示しています天皇皇后両陛下の写真のパネルを活用し、県庁ロビーや公共施設などで御即位二十年の写真展を開催して頂くよう、この場を借りてお願い申し上げます。

 思えば、平成の二十年間は多事多難の連続でした。この平成の二十年の間、天皇皇后両陛下には、国家・国民のためひたすら尽くされ、ばらばらになりがちな我が国をまとめてこられました。その御労苦をお偲び申し上げるとき、国民の一人として誠に申し訳なく思う次第です。

 と同時に我が国は、いかなる国難に出会おうとも、天皇皇后両陛下のもとで結束することによってその国難を克服してきました。

 御即位二十年の奉祝事業推進の中で、改めて両陛下の高い精神性に敬愛の念を捧げ、日本国民として結束していくことが必ずや今日の厳しい経済状況を始めとする様々な難局を克服し、誇りある素晴らしい日本を築いていくことにつながっていくと確信してやみません。本日お集まりの皆様の一層のご協力、ご支援をお願い致しまして、事業計画の発表とさせて頂きます。


ご発声

(5)聖寿万歳

斎藤 十朗

全国社会福祉協議会会長

ご発声 斎藤 十朗 全国社会福祉協議会会長 ご発声 斎藤 十朗 全国社会福祉協議会会長
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